デザインの余白

グラフィックデザイナーのひとりごと。デザインのこと、京都のこと、そして気になること。

成人式とデザインと革ジャン

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祝・新成人!

昨日は成人の日でしたね。今年の新成人は126万人とのことで、昨年よりも5万人多いそうです。若者が増えるというのは、なんだか心強く未来が明るいような気がしますが、僕が生まれた1968年の新成人は236万人と、今年よりも110万人も多かったんですね。因みに、ここ50年で一番多かった年は1970年で246万人。それ以降は150万人から200万人程度で増減し、2000年以降150万人から徐々に減少してきているようです。(総務省統計局のデータ)う〜ん、今年少し増えたと言って喜んでも居られないですね。。少子化の波は確実に来てますね。

ということで、僕が二十歳の成人の日は何してたかというと、専門学校を卒業してデザイン事務所に就職が決まったということで、DCブランドのスーツを着て同窓会に参加していました。バブルが弾けた後でしたが、今に比べるとまだイケイケな時代でした




二十歳の丁稚

僕がデザイン事務所で最初に与えられた仕事は、書籍の整理と資料探し、モデルのコンポジットの管理、トレスコープで紙焼き、ロットリングで版下のトンボ切り、そして原稿を届けたり受け取ったりするパシリです。Macなんかは当然ない時代で、携帯電話はまだでっかい無線機みたいなもので極一部の人しか持ってませんでしたし、当然メールもありませんでした。カラーコピー機も出始めで、ラフやカンプを作るのもほとんどすべてが手作業。一日が60時間くらいあっても足りないような毎日でした。

この下積み?時代のお陰で、今も随分と役に立っていることがたくさんあります。例えば「資料探し」。これは、先輩や上司からイメージを指定され、それに合ったものを書籍や写真集、またレンタルポジのカタログから探してカンプ制作や企画書の資料などにするものとなります。例えば、こんな感じで指示されます。

「赤い花で、遠くに外国の風景も欲しい。モデルは要らない。カッコ良くてオシャレなヤツ。ピーター・リンドバーグっぽいの」



他人のイメージとリンクするのは難しい

人のイメージと僕のイメージは、どんなに事細かに指示されても100%合致することはありません。そして「カッコいい」などのキーワードも人によって、その「カッコ良さ」は異なります。しかし、先輩や上司が求めるものを提出しなければなりません。しかも、素早く。。

最初は僕がコレと思うものを出来るだけ多く見せるようにして、先輩や上司に最終的に選んでもらってましたが、これだと「当てもん」に近く、先輩や上司が多くの中から一枚を選ぶための時間が必要になります。一から選ぶよりは時間が短縮できるとはいえ、やはり頼み甲斐がありません。でも「資料探し」を何度か繰り返す内に先輩達の各個人の好みや各案件の傾向、デザインのテイスト、企画内容、予算などが見えるようになりました。そして、最終的には実際に写真を撮影するのか、レンタルなのかなどもを考慮して、写真・資料を集め、必要最低限の提案で資料を渡すことができるようになり、今もクライアントの依頼や状況の把握などに生きていると思います。自分の欲しい、カッコいい感覚と相手のそれらを結ぶ何かを掴むヒントがありましたが、今の時代は直ぐに「ググれる」ので、なかなか体験できることではないですね。



一心不乱と革ジャン

暫くは毎日デザインしかしていない、デザインしか見ていない日が続きましたが、今思うとこう言う期間がどんな世界でも必要なんだなぁと。スポーツでもなんでも、一心不乱に打ち込むときは必要です。しかし、それしか見ていないと狭い世界にはまり込み、結果的に自分の目指す道すら見えなくなることもあります。というようなことに気付いたのが入社3年目くらい。そろそろ一人前に仕事もこなせると勘違いする頃で、自分はこんなことをしていて良いのか?などと考えたりします。そして、僕は最初の退職願を上司に出すのですが、受理してもらえず悶々としてしまうのでした(笑

当時のデザイン事務所の給料がどのくらいか、駆け出しデザイナーには知る良しもありませんでしたが、友達から聞く給料よりは遥かに安かったようです。僕の技術やデザイン能力から、それが妥当かどうかも分かりませんが、かなり安かったんじゃないかと僕自身思いますw


で、トップの写真はその頃買った革ジャン。今も現役です。もう25年のお付き合いになりますが、まだまだ大丈夫。当時は清水の舞台から飛び降りる気分で買ったんですが、今思えばそれ程高価なものではありません。でも当時の僕には給料の三分の二ほどする大金で、しかもデザインで稼いだお金で買う最初の少し贅沢なものだったので、今も大切に着ています。あの時は、なんだか一人前のデザイナーになった気がしたものです。

二十歳の成人式から、つい駆け出しデザイナー時代を思い出してしまい、長くなってしまいました。またMacがない時代の写植や印刷やデザインの面白い話や、僕が経験した生き馬の目を抜くような広告の世界の話、東京で迷子になった話など昭和テイストのネタを書いてみるのも良いかなと思ったりもしてますが、書かないかも知れません(笑



命を掛けている人は美しい

日曜日は基本的に自宅でダラダラと過ごすことが多いです。ほとんど畳一枚分のスペースから移動することもなく、本を読んだり、溜まった録画を見たり、映画を見たり、ゲームをしたり。。 夕方になって料理をするために買い物に行くまで、そんな感じで過ごします。たまに庭の手入れや掃除なんかもします。

という感じで、今夜もボケ〜っとテレビを観ていた次第です。

2015年12月13日の「フィギャスケートグランプリファイナル2015」。実は浅田真央ちゃんが気になっていたのです。結果は少し残念でしたが、やっぱりかわいいなぁと。

で、そのまま見続けていたところ、気がついたら正座して見ていました。(というくらいピッとしたということです)なんだか凄みを感じました。僕はフィギュアスケートのルールや深いことは分かりませんし、生でみたこともありませんが、今日はその神々しい雰囲気とすばらしい演技に見とれました。と言っても女性ではなく、男性です。。 羽生結弦選手。

演技中の姿には自信が溢れて、なんだか神憑っていたように見えました。安倍晴明でしたし。。テレビを通してまで言葉では表しにくい何らかの力が伝わってくるようでした。ちょっと久しぶりの感覚です。そのとき、ある人の言葉を思い出しました。

「命を掛けている人は美しい」

まさにその通り。
僕には羽生選手が命を掛けているように感じ、またその姿に感動したのです。おそらく彼は命を掛けるというよりも、命を削るほどスケートに打ち込んでいるのでしょう。そしてその気迫のようなものが人を感動させ、凛とした姿になり、会場からテレビの前にまで伝わる気配となり、それらがまた結果を引き寄せるんだと思いました。そして結果を出すからまた自信に繋がり、また一歩新しい世界が開いてゆく。。

そうそう命を掛けるようなことはありませんが、そういう風に思える事があることは幸せなことだと思いますし、そういう時が誰にも人生のなかではあると思います。。僕にも確かにあったのですが、ここしばらく忘れていたようでした。

ということで、なんだか若い時を思い出し、メラメラと勇気が湧いてきたのでした。



何気にテレビを見るのも良いもんだと思った休日の夜。
明日からもっとデザインをがんばろうっと。

 

 

フィギュアスケートMemorial グランプリシリーズ2015 in グランプリファイナル

フィギュアスケートMemorial グランプリシリーズ2015 in グランプリファイナル

 

 

 

 

 

お誕生日について

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人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか〜


ということで、来年は歳男です。

上の詞は、信長が好んで舞ったと言われる「敦盛(幸若舞)」の一節ですが、自分自身50に手が届く歳になるとは想像していませんでした。ホントに月日が経つのは早いですね。

さて年齢ということで、昔から気になっていたことがあります。気になるというか、苦手なことでもあるんですが。。

近年はSNS、特にFacebookがほぼ毎日誰かの誕生日というのを知らせてくれます。そして多くの人がその通知を見て「お誕生日おめでとうございます!」などとお誕生日を迎える方にメッセージを送ります。

僕も少し前までは、ほぼ毎日誰かに「お誕生日おめでとう」というメッセージを送っていました。多い時は一日10人近くになることもありました。。で、ある日を境にこの「お誕生日おめでとうメッセージ」をやめることにしました。それは、ずっと気になっていたことがあったからで、お目出度いことを祝うのが嫌だからという訳ではありません。お祝いする場も、祝う人々と祝われる人の笑顔も、パーティなどの空気も嫌いではありません。


そもそも誕生日を祝う風習はいつから始まったのか?

日本では元々「誕生日」を祝う習慣はないというか、「数え歳」で年齢をカウントしていたため、各個人の誕生日(生まれた日そのもの)を祝うことはなかったようです。つまり毎年元日に年を重ねることを、お正月とともに祝ったということです。

そして、誕生日は宗教的な意味合いが強く、イエス・キリストの「生誕祭」としてとり行われたものが各個人の誕生日を祝う習慣につながったそうです。

なので「誕生日を祝う」行為はどちらかと言うと西欧・キリスト教的な文化であるようです。逆に日本・仏教的な考え方だと「誕生」よりも「入滅」など亡くなった時のセレモニーの方が重要視されていると思います。まったく正反対な感じがしますね。。

で、信長はこの生誕祭を日本で初めて行ったとも言われています。それは神に近づいた信長が多くの家臣や人々から崇められることで、絶対的な権力者としての地位を確立しようとしたのではないでしょうか。日本初の天守閣が備わった巨大な安土城に住み、家臣に自分のことを「天主」と呼ばせ、西洋の事情にも通じ、キリスト教の布教を許したということからも頷ける話です。(あくまでもそう言う説があるということですが)


「おめでとう」と言われることの違和感

そもそも僕は誕生日を「ただ年齢を重ねる日」としか思っていなくて、なにか「特別な日」と言うよりは、誕生日をひとつの区切りとして考えています。ま、色んな事を思い出したり、なにかの決意表明をしたりするキッカケではあります。

なので、家族や友達から「お祝い」をしてもらうよりも、「ひとつ年を重ねる事ができました。ありがとうございます。次の一年も無事過せますように、よろしくお願いします」という気持ちで、家族やまわりの人に僕の方から「ありがとう」と言いたい気持ちなのです。本当はプレゼントを貰うんじゃなくて、みんなに記念品を渡してお礼を言うべきなんじゃないかと思っていたりします。実際にはしないんだけどw

そして、「おめでとう」と言われたり、今時の「サプライズ」なんてのをされた日には、どう反応して良いのか分からずに怒ったような顔になるので、ほんとに苦手なのです。こちらが誰かにお祝いをするのは構わないんですが。。



ということで、誕生日は祝ってもらうんじゃなくて、大切な人に「ありがとう」と誕生日を迎える本人から気持ちを伝えるのが本当じゃないかと思うのです。


また、デザインの話はできなかったw

 

 

 

 

水に流せない話

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毎日の生活の中で、小さく「イラっ」とすることがあります。この小さなストレスの積み重ねが無かったら、人間はかなり長生きするんじゃないだろうかなどと本気で考えたりする今日此の頃です。


たとえば、毎日使うトイレ。

男性の場合、的を外して汚してしまうことがあります。できる限り真っ直ぐに狙いを定めているつもりでも、その日のコンディションで外れたり、急にくしゃみが出たりして大幅にOBしてしまうこともあります。それは仕方のないことだと分かっています。仕方ないとして許す広い心を持ちましょう。少なくとも僕はそう考えるようにしています。やってしまったことは仕方ない。。

しかし、多くの人が外したままで何の処理もせずに立ち去っている現実。一定時間ごとに掃除をするプロがいるビルやホテルなどにおいてでも、やはり汚れたままは気になりますし、酷いと不快な気分になります。たまに「どうやったらこんなに水浸し状態にできるのか?」と感動すら覚えるほどの的外しに出会うこともあります。

破れ窓理論」ではありませんが、少しくらい良いじゃないかと放置する人が居るとと、次から次に広がって最後には入るのすら躊躇するような場所になってしまいます。

自分の家ならだれも放置しないはずなのに、外だと急にどうでもよくなるのでしょうか。自分が不快なことは他の人も不快であると感じないのでしょうか。自分が犯したミスは償えば済むこと(本テーマの場合)だと思いますし、手の汚れなんかは石鹸で洗えば綺麗になります。なぜその簡単なことが分からずに実行できないのかが、僕には分からなかったりします。。


というようなことを、しかもトイレの汚れの話をこんなにグダグダと主張すること自体もどうかしてるとは思いますが、事務所やよく知るお店のトイレがそういう状況だと軽く怒りを覚えることがあります。


で、このことはデザインでも少し通じることがあるように思うのです。


それは「想像すること」。

自分がしたいデザインではなく、誰がこれを見るのか、どう使われるのか、またその時の気持はどうなんだろうと、相手(クライアントや消費者など)のことを考えたり、また何かを発注(お願い)するときなども、より分かりやすく相手の身になって考えれば、事故やトラブルの起きる確率は減るはずですし、余計なことに悩まなくて良い分、いい仕事をしてくれるに違いないと思うのです。

やはり「創造は想像」から。

玄関で靴を脱いだら、自分のものじゃなくても揃えてあげた方が気持ちいいと思います。たとえそのことに誰も気づかなかったとしても、そういう小さなことにもサッと気づく心の余裕が欲しいといつも思います。

(トイレの汚れで散々怒っておきながら、というツッコミは無しでお願いしますw)

 

トイレクイックル 容器 10枚入

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広告業界が寒いんじゃないのか?という話

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すっかり秋というか、冬の匂いがする今日此の頃。

京都は紅葉シーズンということで国内・海外からの観光客でどこもいっぱい。京都に生まれ育った者としては、嬉しいようなそうでないような微妙な気持ちです。たくさんの方々が京都を訪れ、京都や日本の伝統や文化に触れてくださることは嬉しいことですが、毎日生活している身になると喜んでばかりもいられないことがあります。特に博物館や美術館は長蛇の列で、ゆっくり鑑賞できない状態です。。やっぱりなんでもそうですが、「適度に暇な感じ」が京都らしいという気がします。

さて秋も深まり「つるべ落とし」と言われるほどに、気がついたらあっという間に夜になっている。。そんなこんなで冬を感じる訳ですが、気温もめっきり冷え込み、朝晩はストーブを点けようかと思うほど寒くなってきました。

ということで、寒いといえばグラフィックデザイン界。例の東京オリンピック・エンブレムの件があってから、「これはパクってない?」などと事あるごとに挨拶のように言われたり、「結局あれはどうなのよ?」「広告業界もアレだね」などと、まるで僕がオリンピック組織委員会やエンブレム選考委員会の中枢に居た人間かのように質問されることも多々あります。(最近随分減りましたが...)そして、僕はまるで選考の過程を見たか、自分で行ったかのごとく説明したり...  できる訳もなく、デザイナーのひとりとして思うところを述べたりすることがあります。でも実際今どうなってるのか、あれは何だったのか分からなくて、僕自身モヤモヤしています。薄々想像はつくような気がしないでもないですが、だれか真相を教えてくださいw

と思っていたら、選考委員のひとりだった平野敬子さんがオフィシャル・ブログで考えを綴っておられます。ご本人も様々な葛藤の中、デザイナーとして、また多くのデザイナーや有識者の中から選考委員として選ばれた人間として、できる限り公正かつ感情に左右されないようにと「記録」として書かれています。
僕もデザイナーとして、その対応や考えには非常に共感できます。現在、001〜012まで綴られているのですが、一気に読み進めてしまいました。今後続いていくのか、またどうなるのか、何か真相のようなものが明らかにされるのかなど興味深く見ていきたいと思っています。


デザイナーとして駆け出しの若いころ、賞を取ることを目指して仕事(業務)でも個人でも、それこそ寝る間を惜しんで応募していたころを思い出しましたが、ある時点から国内の広告賞やデザインコンペのあり方などに疑問を持ち、一切のそういうことから離れました。そのため、個人事務所を始めた時も協会などには一切入りませんでした。今思えば若かったのですが、その代わりに地に足の着いた仕事ができたように思います。パッケージひとつデザインして数千万円という、眩しいような仕事の依頼は絶対に来ませんが(笑

 

真相 (双葉文庫)

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