デザインの余白

グラフィックデザイナーのひとりごと。デザインのこと、京都のこと、そして気になること。

ジュンク堂書店京都店がなくなると、迷子になれなくなる話

f:id:gridGraphic:20200124175601j:plain


ジュンク堂書店 京都店が2月29日で閉店するとのこと


 

本屋さん、それも結構大きな書店が無くなるということで、ちょっとショックを受けました。本は、本当に売れなくなってしまったのか、それともAmazonなどのネットでは売れているのか… などと知りたいことや疑問はたくさんあるけれど、その対策なんかを考えるのは専門家に任せよう。

僕が小さな頃は、それぞれの町に小さな本屋さんがあった。おじいさんが独りで店番していて、天井から床まで全部本棚で、お客さんが店内ですれ違うのも難しいくらいに通路が狭くてびっしり本が並んでいる感じ。店頭には週刊誌が平積みされてて、ジャンプやコロコロコミックなんかがあって、年末にはドラえもんカレンダーが吊ってあったりして、いろんな雑誌と混ざってちょっとエッチな写真誌があったり、奥の一角には黒い背表紙のフランス書院文庫なんかが、人目を憚るように置いてあったり…。おそらく小学校の校区毎に本屋さんはあって教科書の販売などもしていていたと思う。その指定書店以外にも昭和の頃は「町の本屋さん」がたくさんあった。そして、町の本屋さんには色というか癖というか、店主の好みというか、なんとなく置いてる本の種類やジャンルがあって、それが町の本屋さんの個性になっていた。

ある店はビジネス書が豊富だったり、またある店は参考書や辞書が揃ってたり、また違う店は料理やペットや手芸や登山など趣味関連の本が充実してたりと、一軒一軒同じように見えて、実はかなり品揃えが違っているのが僕の知る「町の本屋さん」だった。今では少数派になってしまったけれど。いや、まだそういう「町の本屋さん」はあるのだろうかと記憶をたどると、実家の近くに子供の頃よく通った本屋さんが残っていた。
今やお店の半分をレンタル着物店にし、残りの書店スペースも大半が漫画、あとは申し訳程度の雑誌と実用書があり、店舗の大半がカードゲームの陳列スペースとなっている。もはや書店なのかゲームショップなのか微妙な感じで、雑誌の品揃えも近くのコンビニの方が多いくらいではないだろうか。子供の頃は、大きな町(京都なので四条とか)へと行けないため、学校の図書室を除いては小さな町のその本屋さんが書籍に触れる貴重な場所のひとつだった。辞書や参考書を探し、週刊誌や漫画はすべてその本屋さんで買い、夏休みの宿題の夏目漱石太宰治など文学や石川啄木宮沢賢治などの詩集もその本屋さんで買ったと記憶している。

そんな町の本屋が消えてしまって久しい気がするけれど、それで今困っているかと言えば特に困ることはない。残念なだけである。僕がもっともっと町の本屋さんで本を買っていれば、そういう色のある本屋さんらしい本屋さんが今も町のあちこちにあったかも知れない。


とは言え、本屋さんが無くなることで文化が廃れるとか、若者は本を読まないとか、そんなことを言うつもりはまったくなくて、本屋さんが無くなると僕の楽しみである「迷子になる」場所が減るのがちょっと残念だったりするだけである。



本屋さんで「迷子になる」

本屋さんで「迷子になる」とはどういうことか、共感されるかどうかは分からないけど書いてみます。

例えばある日、僕が欲しいまたは読みたいと思った「目的の本」が明確にあって、まずは本屋さんに行く… ということは最近はあまりない。明確に本のタイトルや著者、出版社などが分かっていて、その本が必要である場合はAmazonで発注してしまうから。どちらかと言うと、そのAmazonで買った本が面白かったりして、その著者の別の作品が読みたくなった場合に書店へ足を運ぶということが多い。また、なんの用事もないのに本屋さんの前を通ってしまい、とりあえず中に入ってしまった場合など、先程の「迷子になる」現象が起きてしまう。こっちの方が確率は高い。

京都のジュンク堂書店の場合だと、まずは店頭に平積みされた書店のおすすめ・売れ筋作品から目を通し、雑誌コーナーを一巡り、新書コーナーと流れて、美術デザインのフロアへ行って、写真集やデザイン書などでタイトルを横目に見るともなく見ながらウロウロする。良い本(僕のなかで相性の良いもの)はオーラが出てて「手に取れ〜!読んでくれ〜!」という声が聞こえる(ような気がする)。その声に従って、おもむろに手にとってパラパラと数ページを見る。で、一冊の本を購入しようと決定すると、自分の中のハードルが一気に下るのか、それとも本に対する物欲センサーのリミッターが外れるのか、目につくものや気になるものを次々に手に取るようになってしまう。

そしてデザイン系の本を見ていたのがいつの間にか美術から伝統工芸に移り、あるときは仏像の成り立ちや宗教的意味合いについての本を手に取っていたりする。日によって、それが料理の本だったりする。
またある日はタイポグラフィの書籍を探していて、気づいたら和装の写真集を見ていたりすることがあり、本来は仕事で必要な資料を買いに来たのに、いつのまにか趣味なのか仕事なのか分からないものまで買っていることがある。(でもこれが後に役に立ったりもすることが多いのである!)

僕はこの流れを「本屋さんで迷子になる」と思っていて、それも実は楽しんでいます。

ひとつの本を手にとって、そのなかのタイトルや文章からまた次の、全く別の興味へと繋がり、それが繰り返されることで最後には全く違うものへたどり着く。言葉で引っかかり、意味が気になり、ビジュアルに惹かれる。その繰り返しと反復。とても無駄で、意味のない回り道をしているようだけれど、僕はこの「迷子」になる「寄り道」が大好きだし、デザイナーにとって、とても大切な気がしています。



ひとは経験したことがないものは想像できない

人間は自分で見たり聞いたり経験したこと、時には人から聞いたり、人がやっていることを見たりしたことしでか「想像」できないと思います。全く知らないこと、見たこともないものは描けないのだから。麒麟鳳凰、仏像なども最初にあれを描いた人のものを見て、それを伝えているだけの気がします。だから最初にあの意匠、デザインを作った人は、実際に見たか、爆発的なクリエイティブの持ち主だと思います。もし実際に見たということなら、麒麟鳳凰も実在することになるんだけど。

ま、本を探すことに近いのが、意味を調べる=辞書を引くことだと思う。ここでも「辞書の迷子」になるんだけれど、これは多くの人が経験していると思う。例えば、国語の宿題で意味を調べてる時に、全く関係のないエッチな言葉の意味を調べてみたり、横の単語が気になって辞書から百科事典に移行して調べてしまったり。



興味と好奇心の連鎖がデザインを生む

そうして最初は強制されたものであっても、そこから次の興味や好奇心に繋がり、それをどんどん広げて、終わりがない知識欲みたいなものに身を任せる「知識の迷子」というのが、ものを作ったり考えたりする人間には大切で訓練にもなると思っています。最短最速で答えにたどり着くネット検索も良いんだけれど、大きく遠回りしながら余計なものを身につけることもデザイナーには良いことなのかなぁと思います。デザインの知識や技術だけでなく、どれだけ「その他のもの(余計なもの)」を知っているか、どれだけ経験したことがあるか、その経験した人や考えや技術に共鳴できるかということが大切なデザインの厚みになるような気がします。ひとつひとつの仕事=案件をデザインする際にそのことについて勉強するのは当たり前だけど、長い間に溜め込んだ「一見余計で役立たないような知識」が、何かの切っ掛けでスパークするように一気につながって意味を成すことが良くあるのです。本当に。これは、人と人のつながりにも言えることなんだけれど、これって京都だけなのかな?


ということで、
さて、これからはどこで迷子になろうか。



最後に。

僕は独立した時に、本だけは自由に買えるようになりたいと思ってました。それが高価な本であろうと、僕のデザインや自分のために役立つと思ったら躊躇わずに買えるだけの仕事をしようと決めていました。今のところ、それだけは守れています。

そして、京都にはジュンク堂書店以外にも素敵な本屋さんがたくさんあります。
僕が迷子になってしまう魅力的な文房具屋さんもあります。

できれば、京都に「伊東屋」さんが出店してくれないかなぁ。