デザインの余白

グラフィックデザイナーのひとりごと。デザインのこと、京都のこと、そして気になること。

一見さんお断りのデザイン

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祇園祭真っ只中、京都は暑いです。めっちゃ、暑いです。少し外に出るだけで汗だくになります。

真夏にこんな例えはどうかと思いますが、京都は四畳半の部屋に炬燵(こたつ)を置いて、そこに入ったまま手を伸ばすだけで何でも取れてしまうような、そんなコンパクトな町です。東京と違って、かなり狭いです。物理的な面積だけでなく、世間が狭いです。河原町や烏丸、寺町通はほぼ毎日通りますが、ほぼ毎日誰か知り合いに会います。どこかのお店で友達とご飯を食べていても誰かと会います。小物を物色していても、誰かに声を掛けられます。また、その店のオーナーが知り合いだったり、友達だったりします。そのくらいに京都とは狭く、すぐに「面が割れる」町なので、とてもじゃないけど悪いことはできません。

さて、京都には独特のシステムがあります。皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

「一見さんお断り」

そもそも、「一見(いちげん)さん」とは、「あるお店に何らの面識なく初めて訪れた人のこと」(Wikipedia)とあります。京都は今や世界有数の観光都市を目指しています。ということは、京都を訪れる人のほとんどがおそらく「一見さん」のはずです。ほんとこの数年で海外からの観光客は、爆発的に増えました。治安的にも衛生的にも安全で、これほど安心して観光できる国も珍しいでしょう。落とし物をしたって、ほとんど無傷でも戻ってくる確立が70%を超える(N.Y.タイムズの記事にあったそうです)というから、凄いです。日本人として、このことは自慢しても良いと思うほどです。

京都の「一見さんお断り」とは、馴染みのお客さんからの紹介なしに、一言さん(その時だけの観光客など)を入れるとトラブルなどが起こることがあるので、それを防ぐため一般的な人を断っているとか、芸能人や政治家、起業家など誰が来ているのかを内緒にしなければいけないとか、諸説ささやかれていますが、本当は全く違うと思います。
自分の好きなお店や馴染みのお店に人を連れて行く時、それはそのお店を「あなたも次からこの店を使ってくださいね。とても良いお店ですから、またあなたの人脈などでもっとお客さんを紹介してあげてくださいね」という暗黙の了解があるのだと思います。それはその通りで、僕も好きなお店はたくさんの人に紹介したいと思うし、その方たちがいっぱい行って繁盛して欲しいと願います。しかし、ちょっと最近はそれが違うのかな?と思うようになっています。

例えば、何かを紹介するのは「バトン」だと思うのです。何かを受け渡す行為です。例えば何かのお店であれば、その店での流儀やマナー(あるとすれば)であるかもしれません。またお客さん同士の繋がりだったり、そのお店の事を好きなファン同士の絆かも知れません。

人を紹介するということは、その紹介されている人の保証人でもあるということです。紹介される人は、紹介する人が恥を掻かないようにちゃんとする。また紹介する人は、紹介される人が何かをやらかした場合でもその責任を取る。そして、その責任が取れない場合は人を紹介しない。「一見さんお断り」は、一見(いっけん)冷たい京都人というか、お商売の都合だけでできた制度と思われがちですが、実は人の繋がり、信頼、信用があって初めて機能する仕組みなのです。またそうすることが、みんなを守ることにもなります。まぁ、エエ顔したかったら責任を取れ!ということなのです。ね、結構上手くできた仕組みというかルールですよね。

ということで、デザインと一見さん断りには何のつながりがあるのか。

デザイナーは依頼者が求めるデザインをするだけでは、優れたデザイナーではないと思います。そこから一歩踏み込んで、それを求めるのはなぜか。そして、本当は今何をすべきか、現状では何ができるのか、今後何をすべきなのかなど、依頼者のためになる最善の方法をデザインという切り口で探ります。
このデザインというものが相当に大きなもので、デザイナーがやるべきこととその守備範囲は本当に広く深いものです。この辺りについては、またゆっくりお話したいと思います。

僕の場合、依頼のほとんどが紹介で成り立っています。クライアントがまた別の人や企業を紹介してくださり、それらが次々と繋がる感じで17年もフリーとしてやってこれました。二ヶ月先のスケジュールは真っ白なのに、ひと月前になるとポツポツと埋まっていくということが17年も続いているのは、奇跡的で本当にありがたいことです。デザイナーは、仕事(= 結果)しか見てもらえませんし、そこでしか評価もされないのではないでしょうか。なので一つひとつを丁寧に、これが最後の仕事という気持ちでやるしかないと思います。でも依頼時に自分のデザインや考え方と違うと感じた場合、僕の技量、人脈、経験ではできそうにない(かえって迷惑を掛けると判断するなどの)場合、また非合法すれすれな事柄を要求される場合、政治・宗教関連などはお断りしますが、基本は紹介していただいいた以上、そのご紹介者が困らないよう、また恥を掻かないようあらゆる努力をします。依頼者に対する誠意も大切ですが、紹介してくださった方への対応はさらに丁寧に考えたいと思います。そして、紹介してくださった方も、その紹介で来られた方も、そしてそれらのお店や企業が相対する無数のお客様にも、すべてが幸せになるような施策、方法をデザインの力でサポートしたいと思います。

デザイナーは、デザインだけをしていれば良いのではなく、そのデザインをするためのあらゆる努力を行うのです。


ということで、トップの写真は先日の祇園祭 前祭の「保昌山」(ほうしょうやま)。その昔(1013年頃らしいです)、丹後守平井保昌と和泉式部恋物語をモチーフに、縁結びとして知られる祇園祭の山です。皆さんにもお仕事や人と、様々な良縁がありますように。

 


京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)

 

 ↑ 京都人のイケずなところ、歪んだヒエラルキーなど、京都人なら「ぷぷぷ」と見に覚えのあること、また京都以外の人にはなるほどと思い当たること満載です。超おすすめです。

京都の夏は鱧と祇園祭なんだけど、意外に知られていないこと

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「今年はなんだか涼しいな」なんて言ってる内に祇園祭が始まり、やっぱり京都は今年もとんでもなく蒸し暑くなってます。四条通でコンチキチン♪と聞こえ始め、鉾立がはじまると京都の町はソワソワしてきます。ちなみに、7月1日から31日までのひと月間がず〜っと「祇園祭」であることを皆さんご存知でしょうか?7月16日の宵山、17日の鉾巡航辺りだけがお祭りと思っている方も多いと思います。今年は3連休(もう今週末だ)がちょうど宵々山、宵山、鉾巡航(前祭)と重なるので、ものすごい人出が予想されます。僕は毎年この三ヶ日はできるだけ町に出ないことにしています。暑いし、人多いし、もの高いしw

さて、このブログを毎週更新すると年始に決めていながら、前回の更新から早5ヶ月になろうとしています。昨年や一昨年はどんな記事を投稿したのか少し遡ったところ、やはりこの時期は「祇園祭」ネタをかいていました。昨年は他のブログやコラムで少し祇園祭について書いたので、自分のブログではお休みしてしまったようです。

二年前の2015年の祇園祭辺りの投稿は、「台風と祇園祭」というタイトルなのですが、今年もやはり祇園祭の前に台風が到来、集中的な豪雨による被害が九州では特に酷くなっているようです。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、行方不明者が見つかり、一刻も早く復興することを願います。 

gridgraphic.hatenablog.com

 
そもそも祇園祭は、約1200年程前に清和天皇の御代に京都に疫病が蔓延し災害が続くことから、それらを鎮めるために牛頭天王(ごずてんのう、素盞鳴命ともいわれる)を祀り病魔退散を祈ったとされています。僕がこのことを知ったのは高校生の時で、認識はしたけれどまだそれがどういうことなのかはピンときていませんでしたが、阪神淡路大震災東日本大震災と経験するうちに、祇園祭を「お祭り」としての少し浮かれた気分と祈りとしての真摯な気持ちが相半ばするようになりました。特に災害の多い年は祈る気持ちの方が大きいのですが、それでも高校生の頃は、彼女を誘って宵山に出かけるのが楽しみというか、宵山に彼女がいるかどうかが最重要課題だったりしました。

1200年近く続く祭りですから、一番最初の頃とは随分違っていることだろうと思います。鉾や山の數、その形やデザイン、装飾品、祭りの仕来り、そして京都の町そのものまで今とは違ったはずです。しかし、どんなに形や見た目は変わろうとも、その根本にある自然(神)への畏怖と復興の祈り、健康と繁栄の気持ちは変わっていないということです。凄いことだと思いませんか?これらは人から人へ伝えられ、親から子、そして孫の代と受け継がれてきたからこそ、今も続いているんですね。そういうことを考えると、やっぱり「人」が大切なんだなぁと改めて思います。祇園祭自体、何度も中止になったり、再興したりを繰り返しているそうですが、このままもあと1200年、いやもっと続いて欲しいと思います。



「デザインの余白」らしく、祇園祭のデザインに関する情報を少し。
祇園祭の期間中は「胡瓜(きゅうり)」を食べてはいけないとされています。それは以前も書きましたが、祇園祭祇園社=八坂神社のお祭りであり、その神紋の図案が胡瓜の切り口に似ているからという理由です。これはあまりにも有名な話なので、知っている方も多いと思いますが、不思議な事に祇園祭の時に出る屋台のお店には胡瓜の一本漬けが売られて、結構な人気なのです(笑
この「神紋」以外にも33基(前祭:23基・後祭:10基)ある山鉾には、それぞれの紋があります。漢字を図案化したものから山や鉾をシンボル化したものなど様々です。鉾や山自体のデザインや装飾も大変素晴らしいものがありますが、それぞれの紋にも注目していただければと思います。御朱印的に判子を押してもらって集めるのも良いかも知れませんね。

最後に、実は山鉾巡行はお祭りの露払い的な行事で、本命は神幸祭還幸祭という神輿を担ぐ祭りということをご存知でしょうか。祇園祭は華やかで静かなお祭りのイメージがあると思いますが、この雅な京都にも激しく荒々しい神輿があるのです。鉾巡航の後、夕方から神輿が担ぎ出され、そこからが法被を着た京都の男たちの暑い夜が始まります。折角なので、鉾巡航を見て帰るのではなく、この神輿(3基あります)もぜひ見てください。まぁ、暑い。そして厳ついですw


祇園祭については、こちらが分かりやすいです。
◯「祇園祭京都市観光協会
◯「祇園祭特集 2017KYOTO design

 

祇園祭のひみつ (月刊京都うんちくシリーズ)

祇園祭のひみつ (月刊京都うんちくシリーズ)

 

 

デザイナーがやるべきこと

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「入稿規定に合ってない部分があるから、修正して再入稿してください」ってことがたまにあります。新聞社や雑誌社が決めた「入稿ガイダンス」に従っていないからダメですということなんだけど、その規定については色々思うことがあるのでちょっと書いておきます。


自分で自分の首を絞めた印刷業界

そもそも印刷業界にMacが導入されて、「DTP」という言葉がもてはやされた頃は、これからは時間もコストも削減できて、早くて安くて良いものができると魔法のようなことを印刷会社自らが喜び勇んで普及させていた気がします。それはシステムや機械を導入できる大手だけなんだけれども、その大手の普及活動のお陰で、身近にたくさんあった「町の印刷屋さん」はどんどんなくなっていきました。コンビニや大手スーパーの進出で商店街がなくなったのと同じ構図。


ついには製版とか写植とががほとんど必要なくなったというか淘汰された(全部ではない)時に、なぜだかデザイナーがその部分をやることになりました。Adobe製品やMacを使って。厳密に言うと、例えばカタログをデザインする際、全体のデザインは勿論ですが、コピー(文章)部分はデザイナーがフォントを選んでテキストを打ち込み、レイアウトをしていきます。昔であれば「写植」を指定して発注し、制作費用にその「写植代」として文字を打つ作業と印画紙などの物理的な費用を計上できましたが、デザイナーが文字を打つようになってからは、その作業費用は請求できなくなり、全体のデザイン費に組み込むことが多くなりました。というか「写植代」のようなものは請求できなくなりました。そして、その原資となるフォント自体も「モリサワ」を代表とするフォントメーカーからデザイナー(デザイン事務所・企業)が購入することになります。このフォントの費用も基本的には請求できないのですが、これはグラフィックデザインを仕事にする上での必需品なので、鉛筆やカッター、定規と言った基本装備品のひとつと考えこともできます。そして、デザイナーは「デザイン」の他に文字詰めなどを行うスキルを身につけることが必要になりました。ま、写植を知ってるデザイナーは、文字詰めにも拘るので自分で打つ方が良かったりします。


デザイナーが動きにくくなった?

写植を発注する代わりにフォントを選んで、デザイナーが文字を打つのはもう常識化してしまいましたが、写植を指定して印画紙が上がってくるのを待つという「タイムラグ」までが無くなった分、「さっき修正原稿を送ったんですが、届いてますか?」ということイコール「直ぐに打ち直して修正してください」になった事を意味します。昔はこの「タイムラグ」の間に打ち合わせをしたり、別の原稿を仕上げたりできたのですが、今やひとつの案件を片付けないと次に進めないという状況になる可能性が高まったとも言えます。時間的に短縮できて良さそうに思えますが、実はこのタイムラグを利用することで、ひとつしかできなかった仕事が複数同時に進行できるということでもあったのです。

確かにデザイナーが自ら文字(写植)を打つことによって、デザインしながらレイアウトやフォントの決定、変更などが縦横無尽にできるようになったのは喜ばしいことですが、逆に言うと他人に作業を発注しない分、いつまでも決められない可能性もあるということでもあります。締め切りまでの時間があれば、いくらでも検討を繰り返すことができるということは良いことではありますが、見切りというか「えいっ!」と決めてしまう勢いが必要なときも実はたくさんあると僕は考えています。

 

 ひとつ減って、ひとつ増える。フリーランスになりやすい時代


写植屋さんとか製版屋さんとか、ひとつの職がなくなるということは、誰かがその部分を担うということで、その作業や部分がすっぽり無くなったのなら、簡略化して「コストも時間も削減できた」ことになるんだけど、実際は誰かがその無くなった時間とコストを負担しているに過ぎなかったりします。そして別の誰かがそれらを担うことで、より良くなったり発展することに繋がればそれが正解で、必然だったのかも知れません。結果的にデザイナーの守備範囲は増えて、準備・習得しなければならないものも若干増えましたが、デザイナーが独立してフリーランスになることを考えると、少ない投資で仕事を始められるというメリットも確かにあります。


ということで、いろいろ書いてきましたが、勝手に規定(ルール)を作ってそれに合わないものは受け付けませんよってことは、どんな世界・業界にもあるのですが、その「規定」とやらもその業界や大きな企業などの都合で、いかようにも変わります。そのたびに僕たちは新しい基準に合わせることを強いられます。それがフリーランスとしての企業努力なのかも知れません。っていうか、「最新の規定を読んでください」とか「最新版のガイダンスをダウンロ土して...」と言うのなら、そっち側も最新のOSやアプリも最新のバージョンに対応してから言っていただきたいものです。いまだに「データはAdobe Illustrator CS6まで」とかありえないし(笑

 

 

 

 

どう生きるのかを考えることは、人生をデザインすることでもあるんだという当たり前のことに気づく

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毎日寒いです。冬なので当たり前ですが、寒いです。

もう何十年も繰り返し経験してきたことなので、十分理解しているはずなんですが、それでも寒いと言ってしまうのが人間だったりします。そしてよく知っている、頭で理解しているつもりでも実際にその時、その場になると感情が理性を超えてしまうことがあったりします。

人の死に立ち会う時、特に親しい人や家族を亡くした時には、頭では「ひとはいつか死ぬ。死なない人間は居ない」ということを分かっていて、いつかそういう日が誰にでも訪れるということを理解しているつもりでも、やっぱり動揺したり悲しんだり、落ち込んだりするものですね。

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あたりまえのことができますように。えべっさんにお願い

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今日は、1月10日。「えべっさん」と親しまれる十日ゑびすの大祭の日です。たくさんの人がお詣りし、笹に様々な飾りをつけて今年一年の商売繁盛を祈ります。「えべっさん」というと西宮神社の「開門神事福男選び」や今宮戎神社が有名ですが、京都でも京都ゑびす神社八坂神社の「祇園ゑびす」などたくさんあります。

そして神様と言うと、皆が平和で幸せに暮らせますようにと願いながら、自分の信じ崇拝するもの以外は異教徒と呼び、憎み、排除し、あげく殺戮するまでに及ぶことに昔から疑問に思い、違和感を感じています。なぜ平和と愛を説く宗教が人を殺すのかは、未だに理解できないことのひとつです。


僕は宗教観と言うものは持ち合わせないというか、はっきりと自覚していないのだけれど、単純に愛するひとは守りたいし、大切にしたい。そして僕を産んでくれた両親に感謝し、ご先祖様にも両手を合わせて拝むことだってあるし、近くの神社で神様にもお願い事をするし、心の底から祈ることもある。目に見えない神様を信じ、会ったこともない先祖を想い、お寺では神妙になり、この日本という国を大切に思うし、天皇陛下を心から敬う。そしてお米を食べる時には自然の恵みとお百姓さんの働きに感謝して、大きな山や深い海、野に咲く花を見ては畏敬の念をいだき、小さな石や樹木にも神を見い出して、そっと手を合わせたりする。

自分がされて嫌なことは人にはしたくないし、自分がされて嬉しいことは人にもしてあげたいし、人から後ろ指さされることはしたくないし、人から感謝されることをできるようになりたい。毎日が刺激的でありたいけれど、毎日が何も変わらず平穏に過ぎることをありがたく思い、また人の行いに腹を立てたりしながら、小さな親切には感謝したりする。

他人との違いを認めることや、人を許す心の大きさを持てるようになって、多くのものに、たくさんの人に、あらゆる出来事に感謝して過ごせれば、それが幸せだなんだろうと思う。人として至極当たり前のことを、自然体で当たり前のようにできるようでありたいと願っています。


ということで、僕にはとりあえずデザインしか得意と言えることがありません。僕のデザインでひとりでも多くの人が幸せになったり、笑顔になることを少しでもやっていきたいと思ったりする、今日はえべっさんの日。商売繁盛も、勿論したいですw


 ちなみに、僕は「シルクヱビス」が好きです。