祇園祭 花傘巡行が猛暑で中止されたということで、ちょっと遡ってみた。
祇園祭の後祭「花傘巡行」が中止になったということで、調べると869年(貞観11年)に始まったとされる「祇園祭」は、今年で1149年も続いています。その長い歴史のなかで、祭(巡行)が中止になったのは実は数えるほどしかありません。
◯1962年(四条通の地下で鉄道延伸工事)
◯1941年(太平洋戦争)
◯1582年(本能寺の変)
◯1467年(応仁の乱)
すごい。なんか教科書で見た文字が並んでる。
ということで、3年前の大型台風のときに山鉾巡行が中止になるんじゃないかと言われた時にも記事を書いていました。
去年も祇園祭について書いてたりします。
併せて読んでいただけると嬉しいです。
でも僕の知る限り、山鉾巡行や神幸祭、還幸祭で大雨や台風になったというのはあまりありません。かすめることはあっても、実施されるときは晴れてたりします。(ほとんど現場に見に行ったことはないんだけど)
しかし、今年の暑さは異常ですね。
京都は先週からずっと雨も振らず、37℃〜40℃近い気温です。元々、日本の天災、厄災を払い、国民の平穏無事を祈るための「祇園祭」。平成最後となる夏、このところ続く大雨や地震、日照りをおさめ、皆が安心して暮らせるように祈りたいと思います。
全然話は変わりますが、先日美人画家の鶴田一郎先生の個展に伺った時に、井上章一先生のトークイベントがありました。もう素晴らしく面白かったので、こちらの本を紹介しておきます。京都人(特に洛外出身の方:僕もですがw)は必読の書。
『京都ぎらい』と、その続編『京都ぎらい 官能編』です。「官能編」は必ず後で読むことをおすすめします。
働くことはそれはそれで大切なことなんだけど、18や22で一生を決めるなんて難しいよね
先日クライアントと打ち合わせの途中、その会社の社長が僕にこのような話をされました。
ある社外のイベント(レクリエーションに近い)に参加する人には、会社から交通費と費用の一部負担するとして全社員に募ったところ、参加を希望した社員が5名だったと。そのイベントは会社とも取引関係のある企業が主催していて、社長ご自身も参加する予定とのことでした。社長は「そんなに会社関係の行事に参加したくないものなのだろうか」と僕に聞かれました。
僕が会社に勤めていたのはもう20年以上前になるけれど、その頃でも新年会や忘年会、社員旅行といった社内行事はできるだけ参加したくないという人は居たし、仕事帰りに上司や先輩と飲みに行くのは嫌だという人も居ました。でもその頃は「飲みにケーション」という言葉があったように、会社が費用を負担する飲み会(タダ酒が飲めること)を喜ぶ人の方が多かったような気がします。
現在では個人のプライバシー保護や業務時間外の自由とその確保に努め、仕事以外での付き合いの強要などはパワハラになるなど、昔に比べると個人の権利が守られるようになったと思いますが、それゆえに少し窮屈で僕なんかは余計に気を使うことも多くなりました。
というような話をしていて、「嫌なら会社を辞めれば良い」という意見がもあり、僕自身がフリーランスということもあって、働くということについて少し考えてみました
高卒で18歳、大卒で22歳。その時点で長い人生の設計をしなければならない不思議
現代では多くの人が高校もしくは大学まで進学、卒業するようになったと思います。ほとんどの人が高卒時点で18歳、大卒の場合は22歳の学校卒業と同時に就職をするべく準備をするはずです。僕の場合は18歳で高校を卒業後、大学に進学するか就職するか非常に悩みました。高校1年生の時に父を亡くしたこともあり、大学進学のための費用と母親に掛けてしまう負担を思い、奨学金を得てなお推薦を受けて大学進学する道もありましたが、奨学金は返済しなくてはならず、大学で何を学べば良いのかも自覚していない状態では、学費が無駄になると考えて就職する道を選びました。しかし、いざ働くといってもやりたい仕事や働きたい会社があった訳ではありません。そこで、父の墓があるお寺の住職の勧めもあり、小さい頃から好きだった仏像を彫る工房に弟子入りすることを試みます。しかしその工房の師匠からは、僕が運慶快慶ほどの才能の持ち主でも無い限り、その世界で食っていくことが非常に難しいということを聞かされ、結果的に断念しました。
家業が仏像関係でないということは、ルートがないため余程の才覚と技術がない限り新規参入というか、一本立ちすることは難しいこと、仮に弟子として修行を積んでも一生弟子=師匠の工房で職人として生きる道のどちらかを選ぶことになると。18歳(実際には17歳)の僕は自分の10年後、20年後、50年後を想像し、その道で生きていき、しかも成功する姿を想像することができませんでした。そんな自信も目論見も持てませんでした。ただ、これから将来的には年老いていく母をしっかりと守らなければならないという覚悟のようなものしかありませんでした。
というように、17〜18歳の時点で、人生が70年〜80年あるとして、その一生を決めるかもしれない判断などできようはずもありませんが、それを決めなければならないのです。最終的に僕が出した答えは、高卒と同時に1年間働きまくって資金をため、専門学校に行ってデザイナーになる。そして10年後に独立して起業するというものでした。
専門学校で教わった技術はそれほど役立たなかったけれど、人との出会いは宝となった
1年間アルバイト三昧の生活をして専門学校へ入学した後もアルバイトを続けながら2年間の学生生活を楽しみ、その2年の間の春休み、夏休み、冬休みには、大阪や京都のデザイン事務所や先生に紹介してもらった会社などにデザインを学びに行くことをしていました。今のようにネットも携帯電話もない時代ですので、すべて電話で直接アポイントを取っては、「タダで働かせてください」と履歴書とポートフォリオを持って回るようなことをしていました。時代はバブルの末期(実際はバブルが弾けた後なんだけど、デザイン業界はまだその余韻で潤っていた状態)で、猫の手も借りたい会社は山のようにあり、タダで働いてくれるならと結構な割合で潜り込むことができました。
そして、資料探し、原稿を届ける、撮影時の小道具集め、版下作業やラフ制作などの作業をしながら、色んな先輩デザイナーの仕事を横目で見ては独りメモを取ったり、夜中に真似てデザインをしたりする日々を送っていました。そして専門学校卒業時には、そのなかの一社から「自分、うちで働くか?」という感じで、そのまま就職するという事になりました。
この専門学校時代の同級生、先生、そして就職した会社でのたくさんの人との出会いがとても大切で、現在のデザインの基礎になるものばかりが凝縮した濃密な期間だったように思います。専門学校で教わった様々なテクニックや知識のようなものは、今思えば就職後に粉々に砕ける程度の深さと内容だった気がします。それでも、この期間があったからこそ今があると思います。
実は僕の卒業した専門学校は京都では最も古いデザイン系の学校で(現在は無くなってしまい残念だけど)、ここの卒業生であることを僕は誇りに思っていたりします。で、Facebookにも卒業(最終学歴)として表記しているんだけど、他の卒業生はここを卒業したことを隠すというか、若干恥ずかしいと思っているフシがあるのです。京都には芸大を含めて大学がたくさんあるからなのかな?事実、同期のみんなからも、うちの学校を卒業したと堂々と言ってるのはお前くらいだと言われるほど。でもその甲斐あってか、現在ニューヨークで活躍されている大先輩からFacebook経由で声を掛けて頂くなんてこともあったりしました。
何度でもやり直せば良いし、そうなるような仕組みがあれば良いのかも
長々と僕の高校卒業から就職までの経緯をお話しましたが、僕が「働く」ということで考えたというか、思ったこと。
- 18歳や22歳で人生を決められない(多分ほとんどの人がそうじゃないか)
- 仮に18歳で就職して、2〜3年で道を変えても良いんじゃないか(ということを普通にできるようになる)
- 色んなことを試しながら、好きな仕事とかやりたい仕事とかを見つけられるようになれば良い
- ということは、小中高校での学び=教育が大切なんじゃないか
- 働く前に教育(様々な知識を得ること)が大切で、また何を学ぶかも自分で選択でき、そして生きる事・方法を学ぶ必要がある
- いっその事大学まですべて無償化して、全員22歳までは学ぶ社会にすれば良いんじゃないか
- 例えば18歳で高校卒業時に就職して、それから35歳で会社やめて、そこから大学に入って専門的なことを学び直すみたいなことが可能なら理想的かな
現在の日本のシステムで、そういう生き方は難しいと思います。一部上場企業や国家公務員であれば、限りなく一生「職」=「収入を得る」という面での不安は軽減できます。そして、その大企業や国に勤めて安心を得ながら、その中にやりがいのある仕事を見出すこともあるし、それを選び目指すことも自由です。日本の99%が中小零細企業と言われますが、その中小企業でも世界を相手に凄い仕事をしていたり、とんでもない技術を持った人が居たりするし、そういう世界で生きることもひとつの答えです。また自分を探しながら、職も色々と変えながら生きていくことも自由だと思います。ただどんな生き方であろうと、自由を得るにはその分の努力が必要になります。そして、そのことを理解する程度の人生経験や大人度みたいなことは必要にはなると思います。
と、結局何が言いたかったのか微妙ですが、働くことが幸せを得るためのひとつの方法かも知れないし、働ける場があるだけでも幸せだし、働くことそのものに幸せを感じるのかも知れません。僕は働く=デザインすることで、一人でも多くの人の役に立ったり、喜ばれたり、そのデザインで誰かが幸せになったりすることが、僕の幸せで生きがいだと感じています。みなさんはどうでしょうか?
ちゃんと見てる
独立して17年、デザイナーになって29年。グラフィックデザイナーの場合は資格なんてものはないので、自分がプロと名乗ればその日からプロなんだけど、僕の場合はデザイン事務所に入って給料を正式にいただいた日から29年。。未だにプロとして一流の仕事ができているかどうか、一人悶々とすることもあるんだけど、一流の仕事って何なのかをいつも考えたりします。
できればメジャーで大きな仕事をしたいと、それこそ20代の頃は「やったもん勝ち」のイケイケでやってきたのですが、実は小さく目立たない仕事も好きで、作家さんのDMや個人の名刺なども沢山デザインしてきました。ちゃんと本物の仕事をして、真剣に考えてお客様と向き合っている小さなお店や本物の職人さん、作家さんがたくさんいらっしゃいます。そんな人達と出会うことができることが幸せで、僕はまずその人達のことをできるだけ理解し、好きになってデザインするようにしています。そしてその方をリスペクトできればなお良いし、その仕事にも敬意を払いたいと思っています。尊敬できなかったり、どうしても好きになれなかったりした場合は、依頼をお断りすることも実際にはあるんだけれど。
で、何が言いたいかというと、そんな目立たない仕事をしていても、ちゃんと見ている人が居るということ。少し昔、僕はずっと作家のDMをデザインしていました。それは楽しく、毎回新しい刺激に溢れた仕事でした。当時は会社員としてデザインをしていたことから、その仕事のギャラが安いこともあり、会社には辞めるように言われていた仕事のひとつでした。(所謂儲からない仕事を多く受けていたのですが、それ以上に儲かる仕事も人一倍やっていたので会社は目をつぶっていた状態だったと思います。そういう時代でした)でもその儲からないDMのお陰である人と出会い、それが切っ掛けで物凄くたくさんの人とつながることができ、独立後の今の仕事につながっていたりします。そして、そこからたくさんのことが広がって、とても楽しいことが始まったりもしています。
人を、モノを好きになり、その時を楽しみ、すべてに敬意を払って大切に思いながら仕事をするときっと通じるような気がします。「仕事は祈り」といった人が居たけれど、今はなんとなく分かります。デザイナーは僕の仕事で、そして職業でもあるけど、デザイナーという僕の生き方になってると思います。30年ほどやってると、大概のことは経験してて、どんなことや状況でも楽しむ余裕が生まれたりします。
年を取るのもそれほど悪くないと思う、今日此の頃でした。
(写真は、僕の好きな黄色。銀杏)
たくらんときょうと
カッコウは自分の巣で卵を温めずに、他のモズやホオジロ、オオヨシキリなどの巣に卵を産み付け、育てさせるという「托卵」という習性があります。カッコウの雛は、元のモズやホオジロたちの卵よりも早く孵化し、カッコウ以外の卵を巣の外に出して殺してしまいます。そして仮の親であるモズやホオジロからエサを独り占めして大きく育ちますが、仮の親はそのカッコウを自分の子供だと信じてエサを運ぶそうです。
京都ではないにも関わらず、京都発などと謳っていたり、京都以外に出店して住所だけ京都本店みたいなものが多い昨今、この話を何となく思い出しました。本物が静かに、そして上品に粛々と伝統を守り続けていいることを良いことに、大きな声で京都人には少し下品と感じるやり方で、京都を消費だけをしていく企業や人を見るにつけ、諦めと悲しい思いになりますが、この流れを止めるのはもはや不可能のようです。京都に店を構え、地域や人々に還元されるのであれば、それはひとつの潮流として歓迎すべきことだし、新しい物や事や人が集まることは喜ぶべきことですが、特殊な習慣や暗黙の了解などが多い京都に馴染むには、長い時間と気絶しそうな程の地道な努力が必要となります。たぶん。
京都に限った話ではないでしょうが、1年2年、せいぜい5年、10年のスパンで物事を捉え、結果を出し、費用対効果など数字で計るのはビジネスとしては仕方ないかもしれませんが、京都は百年単位、千年単位で結果の出る町だと思います。なにせ、京都の人に「先の大戦」と聞くと「応仁の乱」と答えるという笑い話があるくらいです。実際に「祇園祭」は1200年近く続く歴史がありますが、中止されたのは3回しかないと言われています。祭自体が中止になったのは「応仁の乱(1467)」一回だけで、山鉾巡行が中止になったのは「太平洋戦争(1941-1945)」と「阪急電車地下工事の影響(1962)」の二回だけ。なんとなく京都に流れている時間が桁違いなのを分かって頂けるでしょうか(笑
ということで、京都はすっかり秋。