デザインの余白

デザイナーの気ままなブログ。デザインのこと、京都のこと、そして気になること。 God is in the Details

働くことはそれはそれで大切なことなんだけど、18や22で一生を決めるなんて難しいよね

https://www.instagram.com/p/BkhQFK8FvM4/


先日クライアントと打ち合わせの途中、その会社の社長が僕にこのような話をされました。

ある社外のイベント(レクリエーションに近い)に参加する人には、会社から交通費と費用の一部負担するとして全社員に募ったところ、参加を希望した社員が5名だったと。そのイベントは会社とも取引関係のある企業が主催していて、社長ご自身も参加する予定とのことでした。社長は「そんなに会社関係の行事に参加したくないものなのだろうか」と僕に聞かれました。

僕が会社に勤めていたのはもう20年以上前になるけれど、その頃でも新年会や忘年会、社員旅行といった社内行事はできるだけ参加したくないという人は居たし、仕事帰りに上司や先輩と飲みに行くのは嫌だという人も居ました。でもその頃は「飲みにケーション」という言葉があったように、会社が費用を負担する飲み会(タダ酒が飲めること)を喜ぶ人の方が多かったような気がします。
現在では個人のプライバシー保護や業務時間外の自由とその確保に努め、仕事以外での付き合いの強要などはパワハラになるなど、昔に比べると個人の権利が守られるようになったと思いますが、それゆえに少し窮屈で僕なんかは余計に気を使うことも多くなりました。

というような話をしていて、「嫌なら会社を辞めれば良い」という意見がもあり、僕自身がフリーランスということもあって、働くということについて少し考えてみました


高卒で18歳、大卒で22歳。その時点で長い人生の設計をしなければならない不思議

現代では多くの人が高校もしくは大学まで進学、卒業するようになったと思います。ほとんどの人が高卒時点で18歳、大卒の場合は22歳の学校卒業と同時に就職をするべく準備をするはずです。僕の場合は18歳で高校を卒業後、大学に進学するか就職するか非常に悩みました。高校1年生の時に父を亡くしたこともあり、大学進学のための費用と母親に掛けてしまう負担を思い、奨学金を得てなお推薦を受けて大学進学する道もありましたが、奨学金は返済しなくてはならず、大学で何を学べば良いのかも自覚していない状態では、学費が無駄になると考えて就職する道を選びました。しかし、いざ働くといってもやりたい仕事や働きたい会社があった訳ではありません。そこで、父の墓があるお寺の住職の勧めもあり、小さい頃から好きだった仏像を彫る工房に弟子入りすることを試みます。しかしその工房の師匠からは、僕が運慶快慶ほどの才能の持ち主でも無い限り、その世界で食っていくことが非常に難しいということを聞かされ、結果的に断念しました。

家業が仏像関係でないということは、ルートがないため余程の才覚と技術がない限り新規参入というか、一本立ちすることは難しいこと、仮に弟子として修行を積んでも一生弟子=師匠の工房で職人として生きる道のどちらかを選ぶことになると。18歳(実際には17歳)の僕は自分の10年後、20年後、50年後を想像し、その道で生きていき、しかも成功する姿を想像することができませんでした。そんな自信も目論見も持てませんでした。ただ、これから将来的には年老いていく母をしっかりと守らなければならないという覚悟のようなものしかありませんでした。

というように、17〜18歳の時点で、人生が70年〜80年あるとして、その一生を決めるかもしれない判断などできようはずもありませんが、それを決めなければならないのです。最終的に僕が出した答えは、高卒と同時に1年間働きまくって資金をため、専門学校に行ってデザイナーになる。そして10年後に独立して起業するというものでした。


専門学校で教わった技術はそれほど役立たなかったけれど、人との出会いは宝となった

1年間アルバイト三昧の生活をして専門学校へ入学した後もアルバイトを続けながら2年間の学生生活を楽しみ、その2年の間の春休み、夏休み、冬休みには、大阪や京都のデザイン事務所や先生に紹介してもらった会社などにデザインを学びに行くことをしていました。今のようにネットも携帯電話もない時代ですので、すべて電話で直接アポイントを取っては、「タダで働かせてください」と履歴書とポートフォリオを持って回るようなことをしていました。時代はバブルの末期(実際はバブルが弾けた後なんだけど、デザイン業界はまだその余韻で潤っていた状態)で、猫の手も借りたい会社は山のようにあり、タダで働いてくれるならと結構な割合で潜り込むことができました。

そして、資料探し、原稿を届ける、撮影時の小道具集め、版下作業やラフ制作などの作業をしながら、色んな先輩デザイナーの仕事を横目で見ては独りメモを取ったり、夜中に真似てデザインをしたりする日々を送っていました。そして専門学校卒業時には、そのなかの一社から「自分、うちで働くか?」という感じで、そのまま就職するという事になりました。

この専門学校時代の同級生、先生、そして就職した会社でのたくさんの人との出会いがとても大切で、現在のデザインの基礎になるものばかりが凝縮した濃密な期間だったように思います。専門学校で教わった様々なテクニックや知識のようなものは、今思えば就職後に粉々に砕ける程度の深さと内容だった気がします。それでも、この期間があったからこそ今があると思います。


実は僕の卒業した専門学校は京都では最も古いデザイン系の学校で(現在は無くなってしまい残念だけど)、ここの卒業生であることを僕は誇りに思っていたりします。で、Facebookにも卒業(最終学歴)として表記しているんだけど、他の卒業生はここを卒業したことを隠すというか、若干恥ずかしいと思っているフシがあるのです。京都には芸大を含めて大学がたくさんあるからなのかな?事実、同期のみんなからも、うちの学校を卒業したと堂々と言ってるのはお前くらいだと言われるほど。でもその甲斐あってか、現在ニューヨークで活躍されている大先輩からFacebook経由で声を掛けて頂くなんてこともあったりしました。

 

 何度でもやり直せば良いし、そうなるような仕組みがあれば良いのかも

長々と僕の高校卒業から就職までの経緯をお話しましたが、僕が「働く」ということで考えたというか、思ったこと。

  1. 18歳や22歳で人生を決められない(多分ほとんどの人がそうじゃないか)
  2. 仮に18歳で就職して、2〜3年で道を変えても良いんじゃないか(ということを普通にできるようになる)
  3. 色んなことを試しながら、好きな仕事とかやりたい仕事とかを見つけられるようになれば良い
  4. ということは、小中高校での学び=教育が大切なんじゃないか
  5. 働く前に教育(様々な知識を得ること)が大切で、また何を学ぶかも自分で選択でき、そして生きる事・方法を学ぶ必要がある
  6. いっその事大学まですべて無償化して、全員22歳までは学ぶ社会にすれば良いんじゃないか
  7. 例えば18歳で高校卒業時に就職して、それから35歳で会社やめて、そこから大学に入って専門的なことを学び直すみたいなことが可能なら理想的かな 


現在の日本のシステムで、そういう生き方は難しいと思います。一部上場企業や国家公務員であれば、限りなく一生「職」=「収入を得る」という面での不安は軽減できます。そして、その大企業や国に勤めて安心を得ながら、その中にやりがいのある仕事を見出すこともあるし、それを選び目指すことも自由です。日本の99%が中小零細企業と言われますが、その中小企業でも世界を相手に凄い仕事をしていたり、とんでもない技術を持った人が居たりするし、そういう世界で生きることもひとつの答えです。また自分を探しながら、職も色々と変えながら生きていくことも自由だと思います。ただどんな生き方であろうと、自由を得るにはその分の努力が必要になります。そして、そのことを理解する程度の人生経験や大人度みたいなことは必要にはなると思います。


と、結局何が言いたかったのか微妙ですが、働くことが幸せを得るためのひとつの方法かも知れないし、働ける場があるだけでも幸せだし、働くことそのものに幸せを感じるのかも知れません。僕は働く=デザインすることで、一人でも多くの人の役に立ったり、喜ばれたり、そのデザインで誰かが幸せになったりすることが、僕の幸せで生きがいだと感じています。みなさんはどうでしょうか?

ちゃんと見てる

f:id:gridGraphic:20171214221508j:plain

独立して17年、デザイナーになって29年。グラフィックデザイナーの場合は資格なんてものはないので、自分がプロと名乗ればその日からプロなんだけど、僕の場合はデザイン事務所に入って給料を正式にいただいた日から29年。。未だにプロとして一流の仕事ができているかどうか、一人悶々とすることもあるんだけど、一流の仕事って何なのかをいつも考えたりします。



できればメジャーで大きな仕事をしたいと、それこそ20代の頃は「やったもん勝ち」のイケイケでやってきたのですが、実は小さく目立たない仕事も好きで、作家さんのDMや個人の名刺なども沢山デザインしてきました。ちゃんと本物の仕事をして、真剣に考えてお客様と向き合っている小さなお店や本物の職人さん、作家さんがたくさんいらっしゃいます。そんな人達と出会うことができることが幸せで、僕はまずその人達のことをできるだけ理解し、好きになってデザインするようにしています。そしてその方をリスペクトできればなお良いし、その仕事にも敬意を払いたいと思っています。尊敬できなかったり、どうしても好きになれなかったりした場合は、依頼をお断りすることも実際にはあるんだけれど。

で、何が言いたいかというと、そんな目立たない仕事をしていても、ちゃんと見ている人が居るということ。少し昔、僕はずっと作家のDMをデザインしていました。それは楽しく、毎回新しい刺激に溢れた仕事でした。当時は会社員としてデザインをしていたことから、その仕事のギャラが安いこともあり、会社には辞めるように言われていた仕事のひとつでした。(所謂儲からない仕事を多く受けていたのですが、それ以上に儲かる仕事も人一倍やっていたので会社は目をつぶっていた状態だったと思います。そういう時代でした)でもその儲からないDMのお陰である人と出会い、それが切っ掛けで物凄くたくさんの人とつながることができ、独立後の今の仕事につながっていたりします。そして、そこからたくさんのことが広がって、とても楽しいことが始まったりもしています。



人を、モノを好きになり、その時を楽しみ、すべてに敬意を払って大切に思いながら仕事をするときっと通じるような気がします。「仕事は祈り」といった人が居たけれど、今はなんとなく分かります。デザイナーは僕の仕事で、そして職業でもあるけど、デザイナーという僕の生き方になってると思います。30年ほどやってると、大概のことは経験してて、どんなことや状況でも楽しむ余裕が生まれたりします。

年を取るのもそれほど悪くないと思う、今日此の頃でした。

 



(写真は、僕の好きな黄色。銀杏)

たくらんときょうと

f:id:gridGraphic:20171107160147j:plain


カッコウは自分の巣で卵を温めずに、他のモズやホオジロオオヨシキリなどの巣に卵を産み付け、育てさせるという「托卵」という習性があります。カッコウの雛は、元のモズやホオジロたちの卵よりも早く孵化し、カッコウ以外の卵を巣の外に出して殺してしまいます。そして仮の親であるモズやホオジロからエサを独り占めして大きく育ちますが、仮の親はそのカッコウを自分の子供だと信じてエサを運ぶそうです。

京都ではないにも関わらず、京都発などと謳っていたり、京都以外に出店して住所だけ京都本店みたいなものが多い昨今、この話を何となく思い出しました。本物が静かに、そして上品に粛々と伝統を守り続けていいることを良いことに、大きな声で京都人には少し下品と感じるやり方で、京都を消費だけをしていく企業や人を見るにつけ、諦めと悲しい思いになりますが、この流れを止めるのはもはや不可能のようです。京都に店を構え、地域や人々に還元されるのであれば、それはひとつの潮流として歓迎すべきことだし、新しい物や事や人が集まることは喜ぶべきことですが、特殊な習慣や暗黙の了解などが多い京都に馴染むには、長い時間と気絶しそうな程の地道な努力が必要となります。たぶん。

京都に限った話ではないでしょうが、1年2年、せいぜい5年、10年のスパンで物事を捉え、結果を出し、費用対効果など数字で計るのはビジネスとしては仕方ないかもしれませんが、京都は百年単位、千年単位で結果の出る町だと思います。なにせ、京都の人に「先の大戦」と聞くと「応仁の乱」と答えるという笑い話があるくらいです。実際に「祇園祭」は1200年近く続く歴史がありますが、中止されたのは3回しかないと言われています。祭自体が中止になったのは「応仁の乱(1467)」一回だけで、山鉾巡行が中止になったのは「太平洋戦争(1941-1945)」と「阪急電車地下工事の影響(1962)」の二回だけ。なんとなく京都に流れている時間が桁違いなのを分かって頂けるでしょうか(笑

ということで、京都はすっかり秋。

投票への道

選挙の投票所は、通っていた小学校。久しぶりに実家から少しゆっくりと、懐かしい風景を眺めながら歩く。所々変わってたりして、ちょっと新鮮な気分。

 

講堂の投票会場に、選挙人として幼なじみのお母さんが居て、なんだかお通夜の時みたいに静かに少し言葉を交わし、挨拶をするのはいつものこと。

 

選挙は未来を決めるための権利だし、国民の義務でもあると思うけど、遙か昔を思い出すスイッチだったりもする。ずっと地元で生まれ育ってるからだけども、これからも多分ここから離れることは無いと思うし、それだけに余計にちゃんとした人に国会に行って欲しいと思う。

 

投票終了。今夜の開票番組が気になる。

五山の送り火 父と師とデザイン

今日は、816日「五山の送り火」の日です。京都の夏といえば猛暑の祇園祭、そして五山の送り火で少し秋になる。そんな感じです。まだまだ暑い日は続くのですが、お盆休みの最終日ということもあってか、サザエさん症候群のようなもの寂しい気持ちになります。


大文字焼きじゃない

東山如意ケ嶽の「大文字」が一番有名なのもあって、よく「大文字焼き」と言われる方がいらっしゃいますが、正式には「五山の送り火」です。ほかには、金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)の「妙」、東山(大黒天山)の「法」、西賀茂船山の「船形」、及び嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」の五つが午後8時から順に点火され、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送るとされています。

今はネットで生配信(五山の送り火ライブ)されたり、KBS京都(五山の送り火特集)BSなどでも中継されているので、京都にいなくてもどこからでも見ることができるようになりました。僕が小さな頃は、伏見稲荷大社近くの橋の上から直に見ることができましたが、今は高いビルができたせいもあり見ることはできません。

さてお盆と言うことで、僕も実家に帰ってお墓参りをし、仏壇に手を合わせて来ました。実家と言ってもすぐ近くなので、いつでも帰れる距離です。友人たちのように東京や海外から、家族全員で帰ってくることを思うと本当に気楽なもんです。実家が伏見稲荷、お墓が東福寺とこれまた近い距離なのでいつでもお参りできるはずなのですが、仕事が忙しいと言いながら盆暮れだけのお参りになってしまっています。


父と師とデザイン

今年は父が亡くなってから33回目のお盆になり、剣道(道場)の師の初盆となります。父と師匠は、弟子の父親と剣道の師という関係を超えて、幼馴染のように語り、呑み、笑い、喧嘩もする関係でした。年こそ父の方が上でしたが、兄弟のように見えることもありました。二人とも負けず嫌いで、意地っ張りで、天邪鬼な厄介な人たちでした。酒を呑む父と師に挟まれ、僕は説教されたり、色んな事を教えてもらいました。当時は早く終わって欲しいとばかり考えていましたが、今となっては永遠に続いて欲しくもある時間でした。

数年後、父は事故で急逝するのですが、その後人生に悩み自暴自棄になっていた僕を救ってくださったのは師匠であり、父の大きな愛だったのですが、そのことに気づくには16歳は若すぎました。それから紆余曲折あり、結果的には父の死が僕をデザイナーにすることになったようです。(そのあたりの話は長くなるのでまた気が向けば書こうと思います)


ともあれ、15日の「終戦記念日」と16日の「五山の送り火」を迎えると、毎年亡くなった身近な方々を思い出し、色んなことに感謝する気持ちになります。なんだか懐かしくて少し寂しい気分もするのですが、色んな命を感じありがたいと、年を取る毎に強く思うようになりました。

ということで、今年も命あることに感謝し、そして僕にできる何かを伝え、繋いでいけるよう願いたいと思います。

8時過ぎには、「明日から仕事やぁ」と現実に向き合わねばなりませんが