デザインの余白

グラフィックデザイナーのひとりごと。デザインのこと、京都のこと、そして気になること。

撮影(現場)が好き

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スタジオ、ロケ問わずに撮影が好きなのは、限られた時間と条件のなか、状況変化やアクシデントなど(起きないな越したことはないけど)リアルタイムで最適解を出し、決断をしていくところ。

 

そして、頭で想像して描いたサムネイルやラフを実現するためにアイデアを提案してくれるカメラマンや現場のスタッフとのセッションのような会話、仕事の進行、空気。失敗の許されない緊張感と、どこか遊びのような楽しさ。豊富な経験だけに頼らない柔軟な発想。

 

僕が想定していたものより、数段良く仕上がるビジュアルは、ディレクターとしてほくそ笑む瞬間でもある。自分の限界を超えた満足感と、スタッフの能力を引き出せたような快感。

 

だから、どこかの誰かが作ったビジュアルを張り込んだカンプはできるだけ作らない。手描きのサムネイルかラフで提案する。必要があれば何度でもその場で描き直す。デザインは状況で常に変化する。しかし、普遍的で決して変えてはならないこともあるんだよね。

真夜中の事務所でやること


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夜中にふと、自分で完成させたはずのデザインを見直してしまう時がある。
我ながら良くできたと思う時ほど、何度も見直ししまう。


そして、ふと本棚に目が止まる。

本と目が合うと言うのも変な表現だけれど、そんなことがある。「私を見て」と呼ばれたような気がするんだけれど、そんなときは、開いた本によって今悩んでいることや解決すべきことや、煮詰まったアイデアの答えが書かれていたりする不思議。偶然なのか、神様が教えてくれたのか。


と言うことで、今夜は“RICHARD AVEDON”。
フリーランスになったときに、一冊は欲しいと思った写真家のひとり。

 

#design #avedon #photograph #books

 

Richard Avedon: Photographs 1946-2004

Richard Avedon: Photographs 1946-2004

 
Richard Avedon: Portraits of Power

Richard Avedon: Portraits of Power

 

 

解体され消失していく京都の町家

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僕の事務所は、所謂「京都のまちなか」にある。御所近辺や北の方の「京都人」からすると、ギリギリまちなかと言われる五条なんだけれど。僕は伏見稲荷で生まれ育ったので五条でも十分まちなかで、今でも「町家」がたくさん残ってる。


そんななか、この数年流行っている「インバウンド」とやらで外国からの観光客が激増し、ホテルやゲストハウスというものがあっという間に増えた。僕の事務所がある町内は、五条通から万寿寺通までのたった70〜80メートルほどの通りで、戸数にして20数軒しかない小さな町内。マンションとアパートがあるから、実際に住んでる家はもっとあるけれど、それでも50軒もないはず。

その町内に、この数年でゲスハウスが3軒、ホテルが1軒建った。そして今年に入って、老舗の鰻屋さんが廃業して更地になり、今またその向かいの町家が更地になろうとしてる。おそらくその2軒ともゲストハウスかホテルになるのだろう。

最近落ち着いてきたとはいえ、京都はプチバブル。場所にもよるけど、50坪ほどの土地が数億円になるとの噂もあり、維持にお金が掛かるから高いうちに売ってしまえという空気が無いこともない。高齢化でお年寄り一人になった町家をこの先誰が管理していくのか、家賃は無くとも維持するにも費用は掛かるし、家を継ぐべき子どもたちは遠く離れて暮らしている。。時代の流れで仕方のないことなのかも知れないけれど、なんだか寂しい。

去年も京都で最古級の町家が消失したという記事が出ていた。 

www.kyoto-np.co.jp


この10年ほどで6,000軒近い町家が取り壊され、消失したという話もある。。


町家を取り壊してホテルになったり、ゲストハウスになるのは百歩譲って良いとして、ペカペカのもっさい建築物があふれるのが気になる。景観条例とか御大層で面倒な条例を持ってるのに、建物の高さとか色とかだけにうるさく、その建築物のデザインや使用する素材、周りとの協調性などはあまり規制されない状態がもう数十年も続き、ヨーロッパの古い町と同じように歴史のある京都の町が、それら海外とは次元の違う理屈で安物の上辺だけの景観にされ、ちぐはぐなパッチワーク状の町になってしまっている。

そして、今また「インバウンド」の美名のもと、町家を解体は続いている。京都市も宿泊税みたいなことをするなら、町家を解体しないで済むように助成するとか、それでも宿泊施設を作る場合は特別高い税を課すとかやるべきことはあるはずだと思ったりする今日このごろ。

100年、200年という間、残されてきたものを1週間程で壊して、ひと月程で建ててしまう。もっと時間を掛けて考えることもあるだろうし、それだけの覚悟を持ってお金を掛ける必要もあるだろうにと思う。

どうせ壊すなら、ちゃんとしたものを作ってくれ。 ほんまに。

 

京都の町家を再生する

京都の町家を再生する

 
京町家拝見 (SUIKO BOOKS 161)

京町家拝見 (SUIKO BOOKS 161)

 

 

 

桜で思い出すこと、思い出せないこと 〜新元号と桜〜

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そろそろ桜も満開に



新しい元号が「令和(れいわ)」であると昨日、4月1日に発表されましたね。そして、その新元号に切り替わる日が5月1日。奇しくも僕の生まれた日なんだと思いながら、あとひと月で「平成」も終わってしまう。寂しいような気もするし、新しい時代が始まるワクワク感もあるしで、昭和生まれの僕は、昭和・平成・令和と3つの時代を生きることになるんだなと。。おそらくあと10年か20年もしたら「昭和生まれなんですか!?」なんて言われるに違いない。


新しい元号を見て聞いて、なんだか嬉しく明るい気分になった人は多いと思う。昭和から平成に変わる時は、昭和天皇崩御という日本中が悲しむでき事があり、これまでに経験したことのない暗い気分に覆われ、あらゆることが自粛され喪に服していた。けれど今度の改元は、今上天皇が譲位されることで行われるため、お目出度い印象が強いですね。

と、なんだかウキウキした気分で事務所から四条まで歩く途中、佛光寺さんの境内に桜が咲いているのを見かけて写真を撮ってみました。今日は寒くて真冬の感じなんだけれど、こんなに桜が綺麗に咲いているとは。
佛光寺さんの前はほぼ毎日通るし、この時期は桜が綺麗だし、秋は銀杏で境内が黄色く染まるし、夏は大きな階段のところで涼んだり休んだりする人も多い近所のお寺さん。

そして、桜の写真を撮りながら、お寺の境内で明日が父の命日ということを思い出す。父は昭和16年(1941)2月3日生まれで、昭和58年(1983)4月3日に亡くなったので、生まれた日も死んだ日も共に3日ということに何か因縁を感じるけれど、そう言えば僕の好きな数字は3だったりする。その父が亡くなった4年後の昭和63年(1988)4月1日に、僕は大阪のデザイン事務所でデザイナーとして働き始めたことになる(というのをこれを書きながら思いだしてる)。そして翌年の昭和64年(1989)が平成元年となり、平成31年(2019)が令和元年となるんだな。

ということは、デザイナー歴31年やん。(なんかズレてるような気もするけど)
独立してgridGraphic(僕の事務所)を立ち上げたのが平成12年(2000)なので、21年なんとかフリーランスでやってこれてるということになる。ありがたい。

こうして色んなことを思い出すのは何故か昭和◯年とか平成◯年とか元号表記。仕事ではパッと元号→西暦を換算できなかったりするので西暦を使いうことが多いけど、西暦よりもやはり感慨深いものがあるように思います。

思い出すと言えば、僕は父の葬儀の時に喪主だったんだけど、その葬儀の前後の記憶がない。多分父を亡くしたショックと生活や様々な環境が激しく変わったりで、いきなりの変化についていくのに必死だったのかも知れません。まったく覚えていないんだけど、おそらく今日みたいに桜の花が咲いていたんだと思います。こういう数字やタイミングが揃うときって、不思議なものを感じます。

ということで、京都の桜は今週末くらいがピークかも知れません。今や普段でも凄い人、人、人なのに、桜の季節となると更にたくさんの人が...
ただでさえ地元民がランチをするにも困る状況なのに、これからゴールデンウィークにかけては昼も夜もお店は予約必須となるでしょう。実際、予約しないと入れないお店も増えました。京都に来られる際は、早めに予約してくださいね。

 

桜

 

去年からDA PUMPが気になってます。

この気なんの気、気になる気みたいな話

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夕方の五条大橋(北方面を望む)が僕の落ち着く場所でもある




サボりがちというか、ほとんど書いてない状態のブログですが、今年初、そして約三ヶ月半ぶりの更新です。すっかり春めいてきて、海外からの観光客増加でランチもままならない京都からお届けします。みなさん、お元気ですか。相変わらず普段感じたことを何でもデザインに結びつけてしまう癖が抜けませんが、今回もそんなお話です。


さて、「気」って言うと何だかスピリチャル的なことを想像してしまうかも知れないけれど、「やる気」とか「眠気」とか「色気」みたいな身近な「気」もある。そして、人は色んな「気」を発したり、取り込んだりしてて、偶に「悪い気」に当てられて「気分」が悪くなったりした経験のある人も居ると思う。

目に見えない「気」とか、その人の「雰囲気」を作ってるものもあれば、「現場の空気」みたいな沢山の人が集まることでできる「場」みたいなものもある。要するに「気」は人が集まってできるものだと思うんだけれど、たた居るだけでは「気」は作られず、ドラゴンボールの「元気玉」とか「かめはめ波」(ある種の気の塊)のように人が人に対して何らかの思いや期待や欲望を向けた時に発生するものだと思う。なので、好意や悪意なんてものはその「気」の最たるものだろう。

で、僕はこの「気」を非常に感じるというか、とても気になってしまう。好悪の感情、愛情のようなものや喜びなどのプラス方向の気、また邪な気持ちや妬みや恨みなどのマイナスの気。。人それぞれが日々感じたり、思ったりする大小の気持ちや感情が渦巻いているというのを感じることがあって、それらの気によって幸せを感じることがあれば、人のマイナス感情の「気」で疲れることもある。

普段は沢山の方々と交流することが多いけれど、そんな時は人との関わりを一切断って独りになりたくなる。で、何故か神社に行ってしまう。お寺ではなくて。神社の方が参拝客が多かったりするんだけど、それでもその人達は気にならなくて、境内に僕一人で居る感覚になるから不思議。ま、人が来ない場所というのもちゃんとあるんだけれど。

と、なんの話をしたかったの分わからなくなってるけど、「気」というのは確かにあって、それはデザインの場合でも僕には需要なファクターになっている。時代と言う「空気」を感じ、これからの将来性・可能性など「気配」を読み、デザインする上で大切にしてる。そしてプレゼンテーションするときや打ち合わせの際の相手の「気持ち」や「場の空気」、感情などを感じることも大切にしてる。経験と勘みたいなあやふやな、個人の感覚に依存するような気もするけれど、実はこの勘こそが大切だと思ってる。現実の体験や積み重ねから、その人なりのデータが蓄積され、それを瞬時に判断して最良の選択をする作業を「直感」とか「勘」という気がする。


ま、今回は「気」をテーマにしてデザインに結びつけたのは少し強引なきもするけど、良くドラマなんかでヒロインが「人の気も知らないで!」なんてことを言わせるようなデザイナーでは、良い仕事ができない気がする今日このごろです。「気」が多い(笑