デザインの余白

グラフィックデザイナーのひとりごと。デザインのこと、京都のこと、そして気になること。

ちゃんと見てる

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独立して17年、デザイナーになって29年。グラフィックデザイナーの場合は資格なんてものはないので、自分がプロと名乗ればその日からプロなんだけど、僕の場合はデザイン事務所に入って給料を正式にいただいた日から29年。。未だにプロとして一流の仕事ができているかどうか、一人悶々とすることもあるんだけど、一流の仕事って何なのかをいつも考えたりします。



できればメジャーで大きな仕事をしたいと、それこそ20代の頃は「やったもん勝ち」のイケイケでやってきたのですが、実は小さく目立たない仕事も好きで、作家さんのDMや個人の名刺なども沢山デザインしてきました。ちゃんと本物の仕事をして、真剣に考えてお客様と向き合っている小さなお店や本物の職人さん、作家さんがたくさんいらっしゃいます。そんな人達と出会うことができることが幸せで、僕はまずその人達のことをできるだけ理解し、好きになってデザインするようにしています。そしてその方をリスペクトできればなお良いし、その仕事にも敬意を払いたいと思っています。尊敬できなかったり、どうしても好きになれなかったりした場合は、依頼をお断りすることも実際にはあるんだけれど。

で、何が言いたいかというと、そんな目立たない仕事をしていても、ちゃんと見ている人が居るということ。少し昔、僕はずっと作家のDMをデザインしていました。それは楽しく、毎回新しい刺激に溢れた仕事でした。当時は会社員としてデザインをしていたことから、その仕事のギャラが安いこともあり、会社には辞めるように言われていた仕事のひとつでした。(所謂儲からない仕事を多く受けていたのですが、それ以上に儲かる仕事も人一倍やっていたので会社は目をつぶっていた状態だったと思います。そういう時代でした)でもその儲からないDMのお陰である人と出会い、それが切っ掛けで物凄くたくさんの人とつながることができ、独立後の今の仕事につながっていたりします。そして、そこからたくさんのことが広がって、とても楽しいことが始まったりもしています。



人を、モノを好きになり、その時を楽しみ、すべてに敬意を払って大切に思いながら仕事をするときっと通じるような気がします。「仕事は祈り」といった人が居たけれど、今はなんとなく分かります。デザイナーは僕の仕事で、そして職業でもあるけど、デザイナーという僕の生き方になってると思います。30年ほどやってると、大概のことは経験してて、どんなことや状況でも楽しむ余裕が生まれたりします。

年を取るのもそれほど悪くないと思う、今日此の頃でした。

 



(写真は、僕の好きな黄色。銀杏)

たくらんときょうと

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カッコウは自分の巣で卵を温めずに、他のモズやホオジロオオヨシキリなどの巣に卵を産み付け、育てさせるという「托卵」という習性があります。カッコウの雛は、元のモズやホオジロたちの卵よりも早く孵化し、カッコウ以外の卵を巣の外に出して殺してしまいます。そして仮の親であるモズやホオジロからエサを独り占めして大きく育ちますが、仮の親はそのカッコウを自分の子供だと信じてエサを運ぶそうです。

京都ではないにも関わらず、京都発などと謳っていたり、京都以外に出店して住所だけ京都本店みたいなものが多い昨今、この話を何となく思い出しました。本物が静かに、そして上品に粛々と伝統を守り続けていいることを良いことに、大きな声で京都人には少し下品と感じるやり方で、京都を消費だけをしていく企業や人を見るにつけ、諦めと悲しい思いになりますが、この流れを止めるのはもはや不可能のようです。京都に店を構え、地域や人々に還元されるのであれば、それはひとつの潮流として歓迎すべきことだし、新しい物や事や人が集まることは喜ぶべきことですが、特殊な習慣や暗黙の了解などが多い京都に馴染むには、長い時間と気絶しそうな程の地道な努力が必要となります。たぶん。

京都に限った話ではないでしょうが、1年2年、せいぜい5年、10年のスパンで物事を捉え、結果を出し、費用対効果など数字で計るのはビジネスとしては仕方ないかもしれませんが、京都は百年単位、千年単位で結果の出る町だと思います。なにせ、京都の人に「先の大戦」と聞くと「応仁の乱」と答えるという笑い話があるくらいです。実際に「祇園祭」は1200年近く続く歴史がありますが、中止されたのは3回しかないと言われています。祭自体が中止になったのは「応仁の乱(1467)」一回だけで、山鉾巡行が中止になったのは「太平洋戦争(1941-1945)」と「阪急電車地下工事の影響(1962)」の二回だけ。なんとなく京都に流れている時間が桁違いなのを分かって頂けるでしょうか(笑

ということで、京都はすっかり秋。

投票への道

選挙の投票所は、通っていた小学校。久しぶりに実家から少しゆっくりと、懐かしい風景を眺めながら歩く。所々変わってたりして、ちょっと新鮮な気分。

 

講堂の投票会場に、選挙人として幼なじみのお母さんが居て、なんだかお通夜の時みたいに静かに少し言葉を交わし、挨拶をするのはいつものこと。

 

選挙は未来を決めるための権利だし、国民の義務でもあると思うけど、遙か昔を思い出すスイッチだったりもする。ずっと地元で生まれ育ってるからだけども、これからも多分ここから離れることは無いと思うし、それだけに余計にちゃんとした人に国会に行って欲しいと思う。

 

投票終了。今夜の開票番組が気になる。

五山の送り火 父と師とデザイン

今日は、816日「五山の送り火」の日です。京都の夏といえば猛暑の祇園祭、そして五山の送り火で少し秋になる。そんな感じです。まだまだ暑い日は続くのですが、お盆休みの最終日ということもあってか、サザエさん症候群のようなもの寂しい気持ちになります。


大文字焼きじゃない

東山如意ケ嶽の「大文字」が一番有名なのもあって、よく「大文字焼き」と言われる方がいらっしゃいますが、正式には「五山の送り火」です。ほかには、金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)の「妙」、東山(大黒天山)の「法」、西賀茂船山の「船形」、及び嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」の五つが午後8時から順に点火され、お精霊(しょらい)さんと呼ばれる死者の霊をあの世へ送るとされています。

今はネットで生配信(五山の送り火ライブ)されたり、KBS京都(五山の送り火特集)BSなどでも中継されているので、京都にいなくてもどこからでも見ることができるようになりました。僕が小さな頃は、伏見稲荷大社近くの橋の上から直に見ることができましたが、今は高いビルができたせいもあり見ることはできません。

さてお盆と言うことで、僕も実家に帰ってお墓参りをし、仏壇に手を合わせて来ました。実家と言ってもすぐ近くなので、いつでも帰れる距離です。友人たちのように東京や海外から、家族全員で帰ってくることを思うと本当に気楽なもんです。実家が伏見稲荷、お墓が東福寺とこれまた近い距離なのでいつでもお参りできるはずなのですが、仕事が忙しいと言いながら盆暮れだけのお参りになってしまっています。


父と師とデザイン

今年は父が亡くなってから33回目のお盆になり、剣道(道場)の師の初盆となります。父と師匠は、弟子の父親と剣道の師という関係を超えて、幼馴染のように語り、呑み、笑い、喧嘩もする関係でした。年こそ父の方が上でしたが、兄弟のように見えることもありました。二人とも負けず嫌いで、意地っ張りで、天邪鬼な厄介な人たちでした。酒を呑む父と師に挟まれ、僕は説教されたり、色んな事を教えてもらいました。当時は早く終わって欲しいとばかり考えていましたが、今となっては永遠に続いて欲しくもある時間でした。

数年後、父は事故で急逝するのですが、その後人生に悩み自暴自棄になっていた僕を救ってくださったのは師匠であり、父の大きな愛だったのですが、そのことに気づくには16歳は若すぎました。それから紆余曲折あり、結果的には父の死が僕をデザイナーにすることになったようです。(そのあたりの話は長くなるのでまた気が向けば書こうと思います)


ともあれ、15日の「終戦記念日」と16日の「五山の送り火」を迎えると、毎年亡くなった身近な方々を思い出し、色んなことに感謝する気持ちになります。なんだか懐かしくて少し寂しい気分もするのですが、色んな命を感じありがたいと、年を取る毎に強く思うようになりました。

ということで、今年も命あることに感謝し、そして僕にできる何かを伝え、繋いでいけるよう願いたいと思います。

8時過ぎには、「明日から仕事やぁ」と現実に向き合わねばなりませんが

夏休みといえば、24時間テレビだったよね〜

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祇園祭も終わって「もう8月だね〜。早いわぁ」などと言ってる内に、お盆休みのための前倒しシフトが組み込まれてきています。今年は11日の金曜日が「山の日」のため、11日から16日までの6日間休みになるところが多いのではないでしょうか。うちの事務所は、所々の事情により10日から7日間の夏季休業となります。表向きは。。

だいたいお盆というか、8月は業界的に暇な時期とされていて、実際にもスケジュールなど少し余裕が出る気がします。という感じで、お盆はしっかり休もうかなぁ〜、どこか行こうかなぁ〜と休む気満々になってきて、お盆前後のスケジュール調整を始めた頃を見計らったように、クライアント様から「お盆休み明けに提出」と言うありがたい案件を頂いたりすることはよ〜くある話だと思います。これ、お正月も同じパターンですね(笑

結局、お盆の間は独り静かな事務所で、仕事をしていることが多いのです。
「わかる〜!」という方は、星☆をお願いしますね。


さて8月というと、黄色が眩しい「24時間テレビ」が放送されるわけですが、なんと今年で40回目になるそうです。継続するというのは大変なことだと日々実感しているので、本当に凄いと思います。

とは思いつつも、今年も見ません。たぶん(笑)
なぜ、「24時間テレビ」を思い出したかというと「今年のマラソンランナーは誰だ!?ベッキー禊?」みたいな記事を見かけて、「ああ、そんな時期なんだ」と思ったからでした。そして「なぜマラソンなんだろうか」とか、「24時間走ることに意味があるのだろうか?」とか、「誰も見ないんだから、この企画自体どうなのか?」とか、色々考えてしまいました。。

おそらく、まったくのアスリートではなく、普段は運動やスポーツとは無縁の芸能人や著名人が、それこそ「必死で走る」姿をドキュメントとして追いかけ、24時間走り抜く間の様々なドラマを通して「感動」を提供したいのだと思います。最近では「感動ポルノ」などと言われたりもしており、僕はひねくれてるので、見ても感動しないだろうと、あえて見ないことにしています。(実際は涙腺ゆるいのですが...)



いつから見なくなったのか

僕が小学生のころは、夏休みの「24時間テレビ」は一大イベントでした。お小遣いを集めて、募金箱に入れに行く。京都は寺町通新京極通のなかに募金センターがあったように思います。なんだかとても良いことをしたような気になっていたし、全国から集まった募金で車椅子やバスなんかを贈ることが、とても素晴らしいことだと思っていました。そして家族に「絶対寝ないで見る」と誓っていたのに、いつの間にか寝てしまっているのもお約束でした。

毎年開催され、変わらず続けられる「24時間テレビ」の「愛」に共感していた少年は、徐々に「清く正しいもの」よりも「黒く悪いもの」に惹かれ、憧れの気持ちがスイッチしていきます。人の幸せを見たりすると「ケッ」と思い、まっすぐ素直な心は斜め上にネジ曲がり、つぶらな瞳は魚の腐ったような目になり、普通の人が常識では行わないようなことを個性と勘違いし、「悪」というものにカッコよさを感じていく時代を迎えます。おそらくその頃から「24時間テレビ」は見なくなったんだと思います。

その「悪の時代」から抜け出し、色んなことに気づき、学び、人に支えられ、また普通の生活に戻るのですが、それでも「24時間テレビ」は見ませんでした。見るととってもモヤモヤするのです。このモヤモヤを説明しようとすると、かなりの長文になりそうなので今回は止めておきます。



24時間テレビの元祖は、KBS京都

さて、この投稿で「24時間テレビ」という単語を何度も(正確には7回も)使ってきましたが、実は「24時間テレビ」の元祖は京都にあったのです。京都には我ら京都市民が誇る放送局があります。その名も「KBS京都」(心のなかではエコーが掛かっているイメージです 笑)。

1976年の開局25周年記念事業(当時は、近畿放送)として、最初はラジオ放送のキャンペーンの形で始まったとのこと。1983年の第8回からはテレビ・ラジオの両方で放送されたようです。タイトルは「かたつむり大作戦」、交通遺児への奨学金チャリティでした。日本テレビの「24時間テレビ」が、1978年からスタートなので、2年前からやっていたことになります。長門裕之さん・南田洋子さん夫妻が司会をされてたのですが、第一回目からとは驚きです。

しかし、このKBS京都の所謂「24時間テレビ」も実はあまり見た記憶がありません。でもかすかに覚えているのは、番組のオープニングセレモニーが放送されたあと、すぐに「競馬中継」に切り替わるところが、なんともシュールでローカル感が強烈に出ていました(笑



ということで、何が言いたいのか良くわからない事になってますが、最後まで読んでっくださってありがとうございます。今回は「夏休みといえば、24時間テレビだったよね〜」でした。これで、この夏休みもなんとか乗り切れそうです!(笑