デザインの余白

グラフィックデザイナーのひとりごと。デザインのこと、京都のこと、そして気になること。

専門学校に行くだけがプロになる道ではないということ

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先日ある方とお話をしていて、とても共感したことがあるので少し整理しておきます。

僕は10年以上前にあるデザイン系専門学校の講師をしていたことがります。最初は僕のデザイナーとしての経験や知識を学生に伝えるということに緊張しながらも、若い学生に「教える」ということで新しい発見がたくさんあり、実は「教わる」ことの方が多かったように思います。講師をしていた3年間は、今思えばとても貴重な経験でした。ただずっと講師をしながら引っかかっていたことがあったのと、独立間もないデザイン事務所の仕事が忙しくなってきたので、結果的に講師をやめることになりました。講師をしている間に出会った(担当した)生徒は、述べ300人くらいだったと思います。その生徒たちのうち、デザイナーとして業界に残り、いまだに連絡を取り合りあう教え子も数人います。皆、いまではデザイナーとして立派に仕事をこなプロに成長していて、とても頼もしい限りです。


専門学校に行くということ

さて、僕が気になっていたことと言うのは、先生と生徒の考え方というか、学校をどう捉えているのかということでした。

まず、学生はデザイナーになるべくして専門学校に入学してきていると思いますが、そのなかには社会へ出るまでの「執行猶予」と考えているとしか思えない生徒もいました。デザイナーになるという強い意志があるでもなく、ただなんとなく「カッコ良さげ」だったり「自分は少し他の人と違う才能があるに違いない」という感じでデザインの世界に入ろうとしているように見えました。しかし、その多くはデザインで食べていこう、プロになろうと一生懸命努力する生徒たちで、様々な性格の人間が集まる場で、ひとり一人の特性に合わせた指導はとても大変でした。講義の時間だけでなく、その前後に課題を作成したり、その課題の評価をしたり、ひとりずつ違う習熟度や理解度、センスなどに合わせてそれぞれ何をアドバイスしていくかなど、講師としての仕事は山のようにあります。

講師という立場で生徒と間近で接しながらいつも思ったのは、この高い授業料を払って彼らは何を得ようとしているのか?また彼らはそのことを理解しているのだろうか?ということでした。専門学校と言うのは、2年ないし4年間を真面目に通って卒業すればプロになれることを約束している訳ではありませんし、卒業生の多くがデザインとは関係のない職種に就く現実があります。またプロになったとしても、それを続けられる人間はかなり少ないと思います。僕自身が専門学校を卒業していますが、同期、先輩、後輩を見渡しても、現役で業界に残っている人間は片手で数えられる程です。悲しい現実ではありますが。


プロになるということ

僕が専門学校に入った理由については、とても長くなるので別の機会に書きますが、僕も専門学校に入れば自動的に2年後にはプロになれると思ったからでした。しかし現実は違っていました。
たしかに就職率は100%でしたが、それは卒業生が望むデザイン事務所や業界への就職ではなく、一般的な会社やショップへの就職も含めてということでした。その現実を知り、1年の時から良さそうなデザイン事務所に片っ端から電話をかけたり、学校の先生に紹介していただいたりして、その門を叩いて回りました。まだインターネットも普及しておらず、携帯電話も殆どの人が持っていないし、Macもまだなかった時代です。


「給料、バイト代は要りませんので、僕を使ってください。勉強させてください。」


と言って、夏休みと冬休みには、幾つかのデザイン事務所に通いましたが、意外なことに採用してくださった事務所はどこもちゃんと給料を支払ってくれました(笑
特に仕事と言っても専門学生なので、与えられる作業なんて少なかったでしょうし、仕事をさせると返って事務所の方々の仕事が増えるので、指示される仕事のほとんどが書類を広告代理店に届けるとか、図書館に行って資料を探すとか、コピーを取るとか、トレスコープで紙焼きをすることでしたが、毎日が楽しく新しいことの連続でした。なにより学校では教えてくれないことばかりで、自分ではとんでもなく経験値をためる事ができました。

その経験から、学校に行かなくてもプロになる方法はある。要はやる気と勇気だと思いました。しかし、そのことに気づくことができたのも、専門学校に入ったからであり、学校に行くことがまったくの無駄ではないと思います。今でも卒業した専門学校の同期の仲間達と連絡を取り合ったり、業界で活躍する仲間には刺激を受けます。


いつでもどこでも学ぶことはできる

現在、デザイン系の専門学校や大学に通っていて、プロとしてデザインをすることを考えている人には学校へ行くことの意味やどうすればプロになれるのかということを自分なりによく考えて欲しいと思います。学校が無駄とは思いません。ちゃんと学べば良いのですが、何をどう学ぶかは本人の努力次第です。カリキュラムをこなすだけではプロにはなれないし、なったとしても「普通」のデザイナーです。

学びは色んなところにあります。学校の中だけでなく、例えば毎日美術館に通うのも良いかも知れませんし、海に行くのも良いかも知れません。要は、自分が何かを学び取ろうとする気持ちなんだと思います。



ある方とはもっともっと辛辣な話をしていたのですが、それはプロとして一人前になってないと分からないかも知れません。また機会があれば書いてみます。

ということで、今回は「専門学校に行くだけがプロになる道ではない」でした。
デザイナーになることみたいなテーマで以前書いた記事もお時間あればどうぞ。

 

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追記:デザイン系の専門学校について書きましたが、理容師や看護師など多くの専門職では、プロとして働くために国家資格を取得しなければならず、専門学校で学ばなければならならない分野があります。

「ありがとう」と言うことについて

「ありがとう」



僕はこの言葉をよく口にします。コンビニやスーパーで買物をして、レジで支払いをして商品を受け取る時にも必ず「ありがとう」と言います。飲食店で食べるときも店を出る時に「おおきに、ありがとう」と言うし、タクシーに乗って降りるときには「ありがとう」と言います。僕よりも若い人だったら「ありがとう」だし、僕よりも年配の方だったら「ありがとうございました」だし、もう小さい頃からそれが普通になっています。


「いただきます」

「ごちそうさまでした」

「おはようございます」

「こんにちは」

「こんばんは」

「ありがとう」



日常でごく普通に使うし、自然と出る言葉です。



なぜこんなことを書くかというと、ネット上で『店員に「ありがとう」という人の気持が分からない』とか『客のくせに「ありがとう」とか言うのは何なの?』みたいな記事を見て少し驚いたからです。




客と店とはどっちが偉いのか

「サービスを受ける側の客はお金を支払うのだから、店側に感謝されこそすれ、客がお礼を言うなんて考えられない」ということだと思うのですが、そう思うのは割と若い人に多いようです。「お客様は神様です」と昭和の大演歌歌手 三波春夫氏の名セリフにもあったように、お金を払う側の方が偉いように思うのかも知れませんね。でも、はたして「客」>「 店」なのでしょうか。



僕は、お金を支払う側の方が偉いという考え方はしません。店側は、「商品」とそれに伴う「サービス」を「提供」しています。客はその「商品」と「サービス」の「対価」を支払っているに過ぎず、「店と客は対等」の関係です。どちらが上でも下でもありません。




例えば、ランチにカレーライスを食べようと思ったとします。自分で作るのは面倒ですし、お昼にそんな時間はありません。そこで近所のカレー屋さんへ行ったとします。そのカレー屋さんはカレーライスを商品として、その店の店員さんによって調理されサービス(提供)されます。そのカレーには、牛肉やジャガイモ、人参などの野菜、カレーのルーなどのスパイス、そしてお米などたくさんの材料が使われています。それらは農家や畜産家、漁師さんなどからそれぞれの流通ルートを通じて購入されています。当然それらを運ぶ輸送業の人たちも関わります。たった一杯のカレーライスですが、たくさんの人の働きや努力により賄われています。そういうことをすべて凝縮して、カレー屋さんのカレーライスは数百円という値段で提供されているのです。その値段は、いろんな材料や手間などを考慮し、計算された適正な価格のはずです。(もし味やサービスと値段が釣り合っていないと思えば、そのお店には行かなければ良いのです)



客は労せずにそのカレーを食べる代わりに、提供するお店にその対価を支払う。ただそれだけのことで、どちらが上というこはありませんが、カレーができるまでの労力やたくさんの人の手を経て提供されたものに感謝する気持ちとそのお店のサービスに対して、僕はお店の人に「ありがとう」という言葉で感謝の気持ちを表しています。


デザインの世界でも同じ。デザイナーとクライアントはどっちが上なのか




実は、この話はデザインの世界でもあることで、特に駆け出しの若いフリーランス・デザイナーによく相談されることでもあります。お金を支払うお客さま(依頼者・発注者:クライアント)が圧倒的に立場が上で偉い。また依頼者の言うことは絶対であると思い込むことがあるようで、またそのように教えるデザイン事務所や、そのように考えるクライアントもあるようですが、僕はデザイナー(制作者)とクライアント(依頼者)は、対等の立場であると考えます。デザイナーが企画やデザインなどの有形無形のものを提供する替わりに、そのための対価を頂くという、このシンプルなことをちゃんと理解しておかないと必要のない苦労をし、また悩む事にもなります。



カレーのように原価計算が明確に出せて、単価もスッキリと決めやすいのであれば良いのですが、デザインの世界はそう簡単ではなかったりしますが...



なので、依頼を受ける際には通常クライアントとなる人、企業から必ず条件が出ると思いますが、その条件は「絶対」ではないと思っていますし、こちらからもその依頼を受けるための「条件」を提示するべきであると思います。その条件とは、納期であったり、予算であったりすることがまず第一ですが、その依頼をクリアするために必要となるであろう様々な要素(撮影が必要だったり、コピーライターを加える、事前に現場を視察するなど)があり、それらは案件ごとに様々で、プロのデザイナーとして必須と思うことを正直に話せば良いと思います。最初に正々堂々と話し合って、お互いにどういう仕事をするのか、どうしていくのが最善かを理解し合い、それぞれの条件が合った上で仕事進めるのが最良と考えています。条件が揃わないと仕事をしないということではなく、何事も折り合いを上手くつけ、諸々調整ができることも「できる」プロの仕事のうちであるとも思います。



仕事を受ける僕たちデザイナーは、当然クライアント(依頼者)に対して、仕事をする機会を与えていただいたことへの感謝の気持ちをもって、しっかりと期待に応えるべく最善を尽くすことがプロの為すべきことだと思います。



とは言え、とても困った依頼や苦しんだ案件、とんでもないクライアントなどもあり、その都度悩みながら乗り越えてきた経験があったからこそ、このようなことが言えるのかも知れません。良い仕事も、喜ばしくない仕事も含め、様々な機会を与えてくださったことに感謝します。なにより、この言葉を素直に言えると気持ち良いです。




ありがとう。



ちなみに、 FUNKY MONKEY BABYSの「ありがとう」。
明石家さんまさん、上手いですよね〜。とても良い感じです。

www.youtube.com

 

一見さんお断りのデザイン

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祇園祭真っ只中、京都は暑いです。めっちゃ、暑いです。少し外に出るだけで汗だくになります。

真夏にこんな例えはどうかと思いますが、京都は四畳半の部屋に炬燵(こたつ)を置いて、そこに入ったまま手を伸ばすだけで何でも取れてしまうような、そんなコンパクトな町です。東京と違って、かなり狭いです。物理的な面積だけでなく、世間が狭いです。河原町や烏丸、寺町通はほぼ毎日通りますが、ほぼ毎日誰か知り合いに会います。どこかのお店で友達とご飯を食べていても誰かと会います。小物を物色していても、誰かに声を掛けられます。また、その店のオーナーが知り合いだったり、友達だったりします。そのくらいに京都とは狭く、すぐに「面が割れる」町なので、とてもじゃないけど悪いことはできません。

さて、京都には独特のシステムがあります。皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。

「一見さんお断り」

そもそも、「一見(いちげん)さん」とは、「あるお店に何らの面識なく初めて訪れた人のこと」(Wikipedia)とあります。京都は今や世界有数の観光都市を目指しています。ということは、京都を訪れる人のほとんどがおそらく「一見さん」のはずです。ほんとこの数年で海外からの観光客は、爆発的に増えました。治安的にも衛生的にも安全で、これほど安心して観光できる国も珍しいでしょう。落とし物をしたって、ほとんど無傷でも戻ってくる確立が70%を超える(N.Y.タイムズの記事にあったそうです)というから、凄いです。日本人として、このことは自慢しても良いと思うほどです。

京都の「一見さんお断り」とは、馴染みのお客さんからの紹介なしに、一言さん(その時だけの観光客など)を入れるとトラブルなどが起こることがあるので、それを防ぐため一般的な人を断っているとか、芸能人や政治家、起業家など誰が来ているのかを内緒にしなければいけないとか、諸説ささやかれていますが、本当は全く違うと思います。
自分の好きなお店や馴染みのお店に人を連れて行く時、それはそのお店を「あなたも次からこの店を使ってくださいね。とても良いお店ですから、またあなたの人脈などでもっとお客さんを紹介してあげてくださいね」という暗黙の了解があるのだと思います。それはその通りで、僕も好きなお店はたくさんの人に紹介したいと思うし、その方たちがいっぱい行って繁盛して欲しいと願います。しかし、ちょっと最近はそれが違うのかな?と思うようになっています。

例えば、何かを紹介するのは「バトン」だと思うのです。何かを受け渡す行為です。例えば何かのお店であれば、その店での流儀やマナー(あるとすれば)であるかもしれません。またお客さん同士の繋がりだったり、そのお店の事を好きなファン同士の絆かも知れません。

人を紹介するということは、その紹介されている人の保証人でもあるということです。紹介される人は、紹介する人が恥を掻かないようにちゃんとする。また紹介する人は、紹介される人が何かをやらかした場合でもその責任を取る。そして、その責任が取れない場合は人を紹介しない。「一見さんお断り」は、一見(いっけん)冷たい京都人というか、お商売の都合だけでできた制度と思われがちですが、実は人の繋がり、信頼、信用があって初めて機能する仕組みなのです。またそうすることが、みんなを守ることにもなります。まぁ、エエ顔したかったら責任を取れ!ということなのです。ね、結構上手くできた仕組みというかルールですよね。

ということで、デザインと一見さん断りには何のつながりがあるのか。

デザイナーは依頼者が求めるデザインをするだけでは、優れたデザイナーではないと思います。そこから一歩踏み込んで、それを求めるのはなぜか。そして、本当は今何をすべきか、現状では何ができるのか、今後何をすべきなのかなど、依頼者のためになる最善の方法をデザインという切り口で探ります。
このデザインというものが相当に大きなもので、デザイナーがやるべきこととその守備範囲は本当に広く深いものです。この辺りについては、またゆっくりお話したいと思います。

僕の場合、依頼のほとんどが紹介で成り立っています。クライアントがまた別の人や企業を紹介してくださり、それらが次々と繋がる感じで17年もフリーとしてやってこれました。二ヶ月先のスケジュールは真っ白なのに、ひと月前になるとポツポツと埋まっていくということが17年も続いているのは、奇跡的で本当にありがたいことです。デザイナーは、仕事(= 結果)しか見てもらえませんし、そこでしか評価もされないのではないでしょうか。なので一つひとつを丁寧に、これが最後の仕事という気持ちでやるしかないと思います。でも依頼時に自分のデザインや考え方と違うと感じた場合、僕の技量、人脈、経験ではできそうにない(かえって迷惑を掛けると判断するなどの)場合、また非合法すれすれな事柄を要求される場合、政治・宗教関連などはお断りしますが、基本は紹介していただいいた以上、そのご紹介者が困らないよう、また恥を掻かないようあらゆる努力をします。依頼者に対する誠意も大切ですが、紹介してくださった方への対応はさらに丁寧に考えたいと思います。そして、紹介してくださった方も、その紹介で来られた方も、そしてそれらのお店や企業が相対する無数のお客様にも、すべてが幸せになるような施策、方法をデザインの力でサポートしたいと思います。

デザイナーは、デザインだけをしていれば良いのではなく、そのデザインをするためのあらゆる努力を行うのです。


ということで、トップの写真は先日の祇園祭 前祭の「保昌山」(ほうしょうやま)。その昔(1013年頃らしいです)、丹後守平井保昌と和泉式部恋物語をモチーフに、縁結びとして知られる祇園祭の山です。皆さんにもお仕事や人と、様々な良縁がありますように。

 


京都ぎらい (朝日新書)

京都ぎらい (朝日新書)

 

 ↑ 京都人のイケずなところ、歪んだヒエラルキーなど、京都人なら「ぷぷぷ」と見に覚えのあること、また京都以外の人にはなるほどと思い当たること満載です。超おすすめです。

京都の夏は鱧と祇園祭なんだけど、意外に知られていないこと

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「今年はなんだか涼しいな」なんて言ってる内に祇園祭が始まり、やっぱり京都は今年もとんでもなく蒸し暑くなってます。四条通でコンチキチン♪と聞こえ始め、鉾立がはじまると京都の町はソワソワしてきます。ちなみに、7月1日から31日までのひと月間がず〜っと「祇園祭」であることを皆さんご存知でしょうか?7月16日の宵山、17日の鉾巡航辺りだけがお祭りと思っている方も多いと思います。今年は3連休(もう今週末だ)がちょうど宵々山、宵山、鉾巡航(前祭)と重なるので、ものすごい人出が予想されます。僕は毎年この三ヶ日はできるだけ町に出ないことにしています。暑いし、人多いし、もの高いしw

さて、このブログを毎週更新すると年始に決めていながら、前回の更新から早5ヶ月になろうとしています。昨年や一昨年はどんな記事を投稿したのか少し遡ったところ、やはりこの時期は「祇園祭」ネタをかいていました。昨年は他のブログやコラムで少し祇園祭について書いたので、自分のブログではお休みしてしまったようです。

二年前の2015年の祇園祭辺りの投稿は、「台風と祇園祭」というタイトルなのですが、今年もやはり祇園祭の前に台風が到来、集中的な豪雨による被害が九州では特に酷くなっているようです。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、行方不明者が見つかり、一刻も早く復興することを願います。 

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そもそも祇園祭は、約1200年程前に清和天皇の御代に京都に疫病が蔓延し災害が続くことから、それらを鎮めるために牛頭天王(ごずてんのう、素盞鳴命ともいわれる)を祀り病魔退散を祈ったとされています。僕がこのことを知ったのは高校生の時で、認識はしたけれどまだそれがどういうことなのかはピンときていませんでしたが、阪神淡路大震災東日本大震災と経験するうちに、祇園祭を「お祭り」としての少し浮かれた気分と祈りとしての真摯な気持ちが相半ばするようになりました。特に災害の多い年は祈る気持ちの方が大きいのですが、それでも高校生の頃は、彼女を誘って宵山に出かけるのが楽しみというか、宵山に彼女がいるかどうかが最重要課題だったりしました。

1200年近く続く祭りですから、一番最初の頃とは随分違っていることだろうと思います。鉾や山の數、その形やデザイン、装飾品、祭りの仕来り、そして京都の町そのものまで今とは違ったはずです。しかし、どんなに形や見た目は変わろうとも、その根本にある自然(神)への畏怖と復興の祈り、健康と繁栄の気持ちは変わっていないということです。凄いことだと思いませんか?これらは人から人へ伝えられ、親から子、そして孫の代と受け継がれてきたからこそ、今も続いているんですね。そういうことを考えると、やっぱり「人」が大切なんだなぁと改めて思います。祇園祭自体、何度も中止になったり、再興したりを繰り返しているそうですが、このままもあと1200年、いやもっと続いて欲しいと思います。



「デザインの余白」らしく、祇園祭のデザインに関する情報を少し。
祇園祭の期間中は「胡瓜(きゅうり)」を食べてはいけないとされています。それは以前も書きましたが、祇園祭祇園社=八坂神社のお祭りであり、その神紋の図案が胡瓜の切り口に似ているからという理由です。これはあまりにも有名な話なので、知っている方も多いと思いますが、不思議な事に祇園祭の時に出る屋台のお店には胡瓜の一本漬けが売られて、結構な人気なのです(笑
この「神紋」以外にも33基(前祭:23基・後祭:10基)ある山鉾には、それぞれの紋があります。漢字を図案化したものから山や鉾をシンボル化したものなど様々です。鉾や山自体のデザインや装飾も大変素晴らしいものがありますが、それぞれの紋にも注目していただければと思います。御朱印的に判子を押してもらって集めるのも良いかも知れませんね。

最後に、実は山鉾巡行はお祭りの露払い的な行事で、本命は神幸祭還幸祭という神輿を担ぐ祭りということをご存知でしょうか。祇園祭は華やかで静かなお祭りのイメージがあると思いますが、この雅な京都にも激しく荒々しい神輿があるのです。鉾巡航の後、夕方から神輿が担ぎ出され、そこからが法被を着た京都の男たちの暑い夜が始まります。折角なので、鉾巡航を見て帰るのではなく、この神輿(3基あります)もぜひ見てください。まぁ、暑い。そして厳ついですw


祇園祭については、こちらが分かりやすいです。
◯「祇園祭京都市観光協会
◯「祇園祭特集 2017KYOTO design

 

祇園祭のひみつ (月刊京都うんちくシリーズ)

祇園祭のひみつ (月刊京都うんちくシリーズ)

 

 

デザイナーがやるべきこと

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「入稿規定に合ってない部分があるから、修正して再入稿してください」ってことがたまにあります。新聞社や雑誌社が決めた「入稿ガイダンス」に従っていないからダメですということなんだけど、その規定については色々思うことがあるのでちょっと書いておきます。


自分で自分の首を絞めた印刷業界

そもそも印刷業界にMacが導入されて、「DTP」という言葉がもてはやされた頃は、これからは時間もコストも削減できて、早くて安くて良いものができると魔法のようなことを印刷会社自らが喜び勇んで普及させていた気がします。それはシステムや機械を導入できる大手だけなんだけれども、その大手の普及活動のお陰で、身近にたくさんあった「町の印刷屋さん」はどんどんなくなっていきました。コンビニや大手スーパーの進出で商店街がなくなったのと同じ構図。


ついには製版とか写植とががほとんど必要なくなったというか淘汰された(全部ではない)時に、なぜだかデザイナーがその部分をやることになりました。Adobe製品やMacを使って。厳密に言うと、例えばカタログをデザインする際、全体のデザインは勿論ですが、コピー(文章)部分はデザイナーがフォントを選んでテキストを打ち込み、レイアウトをしていきます。昔であれば「写植」を指定して発注し、制作費用にその「写植代」として文字を打つ作業と印画紙などの物理的な費用を計上できましたが、デザイナーが文字を打つようになってからは、その作業費用は請求できなくなり、全体のデザイン費に組み込むことが多くなりました。というか「写植代」のようなものは請求できなくなりました。そして、その原資となるフォント自体も「モリサワ」を代表とするフォントメーカーからデザイナー(デザイン事務所・企業)が購入することになります。このフォントの費用も基本的には請求できないのですが、これはグラフィックデザインを仕事にする上での必需品なので、鉛筆やカッター、定規と言った基本装備品のひとつと考えこともできます。そして、デザイナーは「デザイン」の他に文字詰めなどを行うスキルを身につけることが必要になりました。ま、写植を知ってるデザイナーは、文字詰めにも拘るので自分で打つ方が良かったりします。


デザイナーが動きにくくなった?

写植を発注する代わりにフォントを選んで、デザイナーが文字を打つのはもう常識化してしまいましたが、写植を指定して印画紙が上がってくるのを待つという「タイムラグ」までが無くなった分、「さっき修正原稿を送ったんですが、届いてますか?」ということイコール「直ぐに打ち直して修正してください」になった事を意味します。昔はこの「タイムラグ」の間に打ち合わせをしたり、別の原稿を仕上げたりできたのですが、今やひとつの案件を片付けないと次に進めないという状況になる可能性が高まったとも言えます。時間的に短縮できて良さそうに思えますが、実はこのタイムラグを利用することで、ひとつしかできなかった仕事が複数同時に進行できるということでもあったのです。

確かにデザイナーが自ら文字(写植)を打つことによって、デザインしながらレイアウトやフォントの決定、変更などが縦横無尽にできるようになったのは喜ばしいことですが、逆に言うと他人に作業を発注しない分、いつまでも決められない可能性もあるということでもあります。締め切りまでの時間があれば、いくらでも検討を繰り返すことができるということは良いことではありますが、見切りというか「えいっ!」と決めてしまう勢いが必要なときも実はたくさんあると僕は考えています。

 

 ひとつ減って、ひとつ増える。フリーランスになりやすい時代


写植屋さんとか製版屋さんとか、ひとつの職がなくなるということは、誰かがその部分を担うということで、その作業や部分がすっぽり無くなったのなら、簡略化して「コストも時間も削減できた」ことになるんだけど、実際は誰かがその無くなった時間とコストを負担しているに過ぎなかったりします。そして別の誰かがそれらを担うことで、より良くなったり発展することに繋がればそれが正解で、必然だったのかも知れません。結果的にデザイナーの守備範囲は増えて、準備・習得しなければならないものも若干増えましたが、デザイナーが独立してフリーランスになることを考えると、少ない投資で仕事を始められるというメリットも確かにあります。


ということで、いろいろ書いてきましたが、勝手に規定(ルール)を作ってそれに合わないものは受け付けませんよってことは、どんな世界・業界にもあるのですが、その「規定」とやらもその業界や大きな企業などの都合で、いかようにも変わります。そのたびに僕たちは新しい基準に合わせることを強いられます。それがフリーランスとしての企業努力なのかも知れません。っていうか、「最新の規定を読んでください」とか「最新版のガイダンスをダウンロ土して...」と言うのなら、そっち側も最新のOSやアプリも最新のバージョンに対応してから言っていただきたいものです。いまだに「データはAdobe Illustrator CS6まで」とかありえないし(笑